去年の暮のことになるが、「送料無料は配達員に失礼」と題する読者からの新聞投稿があった。要約すると、「
送料無料という言葉をよく見かける。この言葉は配達員に『自分たちの仕事はタダ』と感じさせ、失礼な言い方だ」とする内容であった(2017.12.10 朝日、三重県 71歳男性)。
まず感じたのは、「そんなことを思う奴なんかいないだろう」との思いであった。配達員の報酬が、正規社員として月給制になっているのか、それとも非正規で一個当たりの配達に応じた報酬制度になっているのか、それとも別の請負システムになっているのか、私には分らない。
それでも「送料無料」の商品の配達が、送料無料と書いてあるだけで配達に係るさまざまな費用(車両費や燃料費や人件費など)が支払われないなどとは考えられないからである。
もちろん、世の中に論理的には無料というシステムはない。見かけ上無料に見える駅やデパートのエレベーターやエスカレーターなどだって、結局は商品にその代金が転嫁されていることが分る。福引などで無料で商品や旅行券などが贈与されるようなラッキーがあったところで、その贈与は他の多数の商品の販売代金に何らかの形で上乗せされていることくらい、誰が考えたところですぐに分ることだと思う。
確かに送料無料を掲げた販売が現実に存在する。私も例えば通販でそうした商品を注文したこともある。また近くの商店で購入した電化製品が、特に配達料金を負担することなく届けられることも経験している。また近くのスーパーでは、日常の買い物も老人に限り無料で自宅にお届けしますとのサービスがあることもしっている。
だが、そうした無料のシステムが配達員への報酬の減額もしくは無報酬を前提に成り立っているとは到底思えないのである。送料無料が配達員の犠牲で成立しているのだとしたら、そもそも配達員という制度というか職業そのものが存在しないことになると思うからである。
どうやら投稿者は「研ぎ職」らしく、自らの営業が「
店舗を持たず、宅配便を扱う運送会社に運んでもらうことで商売が成り立つ通販会社です」と書かれているので、日ごろお世話になる運送業者への思い入れが人一倍強いのかもしれない。それにしても、どうして「送料無料は配達員に対する報酬がタダを意味する」と思い込んでしまったのだろう。
確かに「送料無料」は、少なくとも購入者からは送料を受け取らないというシステムである。遠隔地からの商品購入の場合、通常必要となる「商品価格+運送料」という料金体系から送料を0とすることを意味する。
投稿者の心配する相手は「宅配便を扱う運送会社」である。つまり片手間の運送ではなく、運送専門業者である。だとするなら、タダで輸送を引き受けることのないことくらい赤子にも分る道理である。
もちろん送料無料の表示は商品販売会社の意思である。無料の意思を示したところで、それだけで現実の送料が無料(つまり運送委託会社への送料支払がタダ)になるものではない。だからと言って商品価格に上積みすることで価格を高くすれば、他社との販売競争に負けるかもしれない。だとすれば、運送会社に対して送料の値下げの要求が強くなるかもしれない。
だからそうした送料値下げの圧力が、運送会社の経営を圧迫する方向へと向かうであろうことは理解できる。そうした弊害を批判するのなら、投稿者の意見は良く分る。それは単に「送料無料」の表示が、言葉として配達員に「自分たちの仕事がタダ」と感じさせてしまうような心理的影響があるとする問題ではなく、現実の運送業者の経営、強いてはその従業員の賃金に関わる問題だからである。
でも投稿者の思いはここで途切れてしまう。「タダ」と感じさせることが「配達員に失礼」だと思うという主張のみで、思いがそこで中断してしまっているのである。そして「(配達員の)
苦労に感謝して、例えば代金の表示の下に『送料含む』とか、『送料共』と小さく書くくらいの配慮をされたらいかがでしょう」と続けることで、一層その不明確さを増加させているのである。
投稿者は「送料無料」を承認しているのかもしれない。そしてその一方で「
縁の下の力持ちを大切にしないと、やがて手痛いしっぺ返しをくらいますよ」と矛盾するような主張を付け加えるのである。投稿者は一体何を言いたいのだろうか。「送料無料と書くこと」そのことだけが批判されるべきであると言いたいのだろうか、それとも「書き方が失礼だ」との、言わば日本語の書き方、使い方、用法を批判したいだけなのだろうか。
この投稿を読んで私は、彼が「送料無料というシステムが悪いのだ」と言いたいのか、それとも「送料無料という言葉遣いが間違っていること」を伝えたいのかという、非常に単純な疑問をどうしても拭い去ることができなくなってしまったのである。
2018.1.18
佐々木利夫
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