「始めて木のスプーンでカレーライスを食べたとき、口当たりのよさに驚いた。今まで金属のスプーンを使っていたのはなんだったんだろう、と思う」、こんな文章に出会った(穂村 弘、君がいない夜のごはん、NHK出版、p140)。

 それにつながって、私の経験した木製の食器のことを思い出した。まだマイカーをで北海道内の行ったことのない土地をふらふらドライブして楽しんでいた頃のことだから、今から20数年、いや30年近くも前の話になるかもしれない。

 旭川に勤務していて、休日に北見方面の湖沼めぐりをしたことがある。恐らく置戸か留辺蕊近くの目立たないいくつかの沼めぐりだったと思うのだが、地図を探してもどの辺だったのか記憶にないのが何とももどかしい。

 ともあれ近隣の住民にとっての身近な公園か観光地域だったと思う。記憶が定かではないのだが、冬にはスキー場になると思われるような建物があり、そんな所へ夏のシーズンに一人で訪れたことがある。食事どきだったのだろう、とあるレストランじみた食堂に入ってラーメンを注文した。

 その時出てきたのが、木製の丼に盛られ、木製のスプーンというか蓮華が添えられたラーメンだったのである。もちろん割り箸があるのは当然である。私はそのとき、生まれて始めて木製の丼というものを経験した。木製の蓮華も始めてお目にかかったような気がしている。

 北見・置戸界隈は、木工製品を町の特産品として活性化を図ろうとしていたから、この木の丼もそうした特産品の一部なのかもしれない。

 その時のラーメンをすする食感が今でも忘れられない。割り箸が木でできていることに特に違和感はなかった。それは日常的にどんな地域のどんなラーメンでも、添えられているのは木の割り箸であり、それがとくに割り箸でなく普通の食事箸だったところで、木でできていることについての特別な感触はなかった。

 ところが、丼と蓮華が木製であることは、ラーメンを食べるという動作にまるで合わないことに気づいたのである。ラーメンそのものを食べるという動作は、箸で麺を持ち上げてそのまま口へと運ぶのだから、丼や蓮華とはとりあえず関係はない。

 だが、汁をすする又は飲むという段階になると、どうしても蓮華を使い、または丼に口をつけることになる。その口当たりが、とてもラーメンにそぐわなかったのである。

 木製品の良さは、その肌触りにあるのだと思う。それをぬくもりと表現するか柔らかさと表すか、はたまた優しさというかはともあれ、金属やセトモノのような冷たさとは異質な感触が、例えば積み木にしろ収納具としてのタンスや下駄箱などが持っており、その感触が例えば優しさみたいな感情を誘発するのである。それが木製品の特徴でもあると言ってもいいだろう。

 だが、そうした感触が、逆に作用したのである。口に当たってくる木の感触が、ガラスやセトモノや金属などとは異なるやさしい触れ合いを誘発する、そのことが逆に木の食器の肌ざわりが体になじまない、口当たりの悪さに結びついてしまったのである。

 確かに木材の肌触りには、優しさみたいな感触があるように思える。だがそれは主として「指先の感触」によるものであって、そのことがそのまま「唇」や「舌触り」の優しさなどと一致することとは、まるで異なるように思える。

 もちろん木のスプーンの感触にほれ込んだ冒頭の引用文のような著者もいることだから、こうした感触は個々人に特有なものなのかもしれない。私の抱いた木の丼の感触も、他のラーメン通の、しかもそうした木の丼で提供されたラーメンを経験した者が抱く多数の感触とは異なるのかもしれない。もしかしたら、口当たりが悪いと感じるのは私だけで、多くの人がそうした口ざわりがラーメンを美味しくすると感じるかもしれない。

 だから、私の感触を絶対視するつもりはない。ただ、私が感じたザラザラ感やスープの染み込んだ丼や木材蓮華の湿り気感が、少なくとも私の皮膚感覚には合わなかっただけなのかもしれない。その後ラーメンを食する機会は数多くあったけれど、一度も木製に出会ったことはない。そしてそうした木製丼がその後北見地方を離れて、札幌や他の地域へと普及したとの話も聞いたことがない。

 今でも北見地方は木材振興が盛んなようである。あそこでは現在でも木の丼でラーメンを出しているのだろうか。そんなこんなが、この本を読んでふと思い出した。口当たりの悪さが、ラーメンまで不味いものにしてしまったかのような、ただ、それだけのことである。


                                     2018.4.27        佐々木利夫


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木のスプーン