韓国ピョンチャンでの冬季オリンピックがやっと終わったと思ったら、引き続きパラリンピックが始まるのだという。3月9日から18日までと言われているので、始まるまでまだ10日ほど残してはいるものの、中断している10日間ほどだって、恐らく帰国したメダル獲得者のインタビューや地元凱旋などの行事などに埋めつくされていることだろう。ともかく今からいささかうんざりの気分である。

 それはともかく、パラリンピックは世界最高峰の障害者スポーツ大会と言われているように、身体障害者を対象とした競技会である。つまり、オリンピックが健常者の世界大会であり、パラリンピックが障害者の世界大会であると色分けされているということである。

 障害を一つの特性として認識しようというパラリンピック支援者の声があり、それに賛同するかのような障害者自身の声もある。障害を一つの既成事実として理解しようとする声も多い。

 その意味するところは分かる。だが現実社会は、健常と障害の境目が混沌としてきており、そのことが両者の意味を混乱させていることに思いを馳せるべきである。それは意味の混乱だけではなく、健常者自身の抱く障害の意識、障害者自身が抱く障害の位置づけにまでその混乱は及んでいる。

 どこまでを健常者と呼ぶのか、どこから傷害者と認定すればいいのか、そんな区別自体が私のいつも陥る連続の罠に陥っているからである。「私は健常者である」と例えば私が自称する。だが考えてもみてほしい。一つの障害もない完璧な人間なんて、この世に存在するのだろうか。

 聴力一つ取ったって、人間の聴こえる範囲の周波数には限界があり、しかも人それぞれに聴こえる範囲は異なっている。大きくは加齢に伴って高い音が聞こえにくくなっているという。蚊の羽音を若者はうるさいと感じるけれど、老人はそもそもその音が聴こえないのでうるさいと感じることはないのだそうである。指の長さだって人様々である。中指と薬指の長さの差が、人により異なることはこれまでの友人や親族などの雑談などで明らかである。それが原因で特定の和音が五線紙どうりに弾けないとき、ピアノ演奏に関して私は障害者なのか。恐らく人種により座高が異なったり、空気中の酸素濃度に対する耐性だって異なるだろう。その体型なり身体機能の違いゆえに私はスポーツ選手としてオリンピックには参加できないのでだろうか。

 視覚も同じである。紫外線や赤外線は人間の目には見えないとされているけれど、どこまで見えるか、どの周波数付近から見えなくなるかは、人により千差万別なのではないだろうか。ある範囲の色が見える人を健常者、見えない人は障害者として機械的に区別することは可能だとは思う。だが「私はこの程度の紫外線までは見える人」がいたとき、一律の基準で障害者であるかないかの区別をすることにどこまで妥当性があるのだろうかが疑問なのである。

 アインシュタインと比べるなら、私を含む多くの人類は痴呆かもしれない。痴呆を障害者と位置づけるなら、私は立派な(?)障害者である。

 だから、障害者という観念そのものが揺らいできていると私は思う。片足がなかったとしたら、私は障害者に認定されるだろう。だがそれは、例えば税法上の障害者控除を受けるための法的要件に合致するかどうかの問題である。障害者福祉年金を受けられるかどうかの法的評価の問題である。

 ならば障害とは法的評価なのか。障害の程度に法的評価を許すところから、障害者という観念(つまりは健常者よりも手厚い保護が必要との認定)が発生するのだろうか。

 「障害の事実」を、一種の特性と理解しようとする考えがあると、冒頭に書いた。そしてそうした考えは、障害者自身から発せられることも多いとも書いた。だがその「特性」は、一種のサクセスストーリーに触発されて創りあげらたものなのではないだろうか。

 「特性」という言葉には、一種の優位性の認識が含まれていると思う。つまり障害という言葉そのものを特性という語に呼称変換しようとしているのではないと思う。障害者であることに特性を認める」ということは、特定の範囲にしろ「障害者が健常者の能力を超える」みたいな感触が内包されているのではないかということである。障害者の描いた絵が私の絵よりも芸術性が高いとか、ホーキンスが車イスで私には及びもつかない宇宙論を展開するなどは、当たり前に存在しているからである。

 障害を健常者からのハンディ(つまりマイナス)の距離と捉えることは、必ずしも適当ではないかもしれない。いつ頃書いたか忘れてしまったけれど、両足義足のファッションモデルの話題に触れたことがある。彼女は長さの異なる数種類の義足を持っていて、その日の気分や仕事の要請などであたかもファッションのように取り替えるのだそうである。身長の調整、足のスマートさの調整などに利用するのだそうである。まさに彼女の義足は障害のある足の補助具であることを超えて、ファッションそのものにまでなっている。

 パラリンピックの話題でも障害に触れたことがある。しなやかで弾力のある板状の義足は、健常者の筋力や瞬発力を超える力を発揮できるまでになっている。パラリンピックのトラック競技で、そうした義足で健常者を凌駕した加彼が、最近、冬季パラリンピックのリージュの競技にも参加したいと述べていたニュース見た。

 健常者の能力を超えるような人工補助具の開発は、実用化されつつある。そして言えることは、人工補助具の優位性を世界に示すことのできる特権は、それを装備する人間が障害者であるからこそにあるのである。

 その一方で、数日前のNHKEテレの放送は、聴力を完全に失った女性が人工内耳などの手術で音を取り戻す話題を取り上げていた。彼女は、「耳が聞こえなくなった」ことに絶望感を抱き、聴力が復活したことに、望外の喜びを満身で表していた。そうした絶望と至福の物語は、決して「聴こえないことが一つ特性である」とは言えない状況を示していた。

 具体的に示すだけのデータはない。しかし、障害の程度にもよるだろうけれど、障害が一種のハンディであり、マイナスを強いるものであって、障害者を絶望へと引き寄せるものではないだろうか。だから、「障害は特性である」との思いは、健常者を超える力を持つことのできた障害者の一種の驕り、もしくは自らに対する無理やりの説得、障害の事実に対する開き直りの別表現になっているのではないかと感じている。感触でしかないけれど、ほとんどの障害者は己の持つ障害を純粋な意味で特性だなどとは思ってはいない、と私の曲がったへそは思っているのである。

 なぜなら、歩くことも不便になり、読書にも楽器いじりにも熱意が感じられなくなって、以前にはクリアできたテレビゲームのバトルに敗退するようになり、酒が弱くなり、機械操作のマニュアルが理解しにくくなってきている78歳の、あえて表現するなら障害者予備軍、障害者に差し掛かっているとも言うべき私が、ここに現としているからである。そしてそうした事実を、決して特性だなどとは思っていない私がいるからである。


                                     2018.3.3        佐々木利夫


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特性としての障害