テレビを見ていると、視聴者に体操を勧めるような番組がやたら目に付く。それは単に健康管理を目的とするものだけに限らず、体操の効果として美容や肩こりや腰痛などなど多様な方面に有効だとされている。どれほどの効果があるのか、それとも単に健康食品などの宣伝効果をアップするだけの目的で利用されているのか、それは定かではない。

 そうは言っても、それはそれでいいだろう。体調不良の全部が運動することで解消することなどないだろうが、「体操したい人が、そう思う範囲で体を動かす」のならば、周りがとやかく言うべきではない。

 ただ私の勝手な思い過ごしかもしれないけれど、氾濫する体操紹介番組は、体操の押し付けになっているような気がしてならない。もちろん体操の義務化を押し付けているわけではない。気に入ったら、お好きなときにお好きなようにやってください、との視聴者の選択に委ねられていることは良く分る。

 だが背景に「健康と美容」が付かず離れずに潜んでいるのが気になるのである。つまり、「健康と美容」が人質されているということなのである。この人質は強力である。任意であることの枠を超えて、強制的な力まで持っているのである。

 健康であることと美容の目的とが異なることくらい理解できる。理解できることを承知の上で、あえて混同させて健康目的を特定の障害に向けた一種の「治療」と考え、美容もまたそうした「治療目的」に含めて考えてみよう。

 そうしたとき、様々な治療をするためには様々な体操が必要である、と考えることができる。足首が痛い人に向けた体操と腰痛の軽減に向けた体操とは違うだろうということである。脳梗塞のリハビリ目的の体操と単に健康維持だけを目的とした体操とは、自ずから内容が異なるだろうということである。

 そうしたことが分らないというのではない。目的が違えば方法も違うだろうことは、むしろ容易に理解できる考えである。それでも出てくる体操それぞれが、どうしてこんなに異なるのか私は混乱しているのである。

 そして思うのである。あたかも発明品のように、しかも石鹸の泡のように、手を代え品を代えて表れる体操という形式は、もしかしたら効果があると標榜しているそれぞれの体操の目的とは、必ずしもきちんと合致することが検証されていないのではないかという疑問である。「体を動かすのだから、体に悪いことなんかそもそもないだろう」程度の、安易な判断で様々なスタイルの体操が発案されているのではないだろうか。

 発案だけなら特に問題はない。例えば「便利だとする発明品」がそれこそ山のように目の前に提供され、時に商品化されたところで、購入は義務ではない。必要だと思ったり便利だと感じた人が、価格と相談して判断すればいいだけだからである。

 だったら体操も、自分に役立つかどうかを自分で判断し、採否を決めればいいではないかと言うかもしれない。ただ、前にも述べたように、体操には「健康」という人質がとられているのである。どこかで強要されているような雰囲気がつきまとっているのである。足が痛い、腰が痛い、そして一方にこの体操をすることでそうした痛みが解消するとの宣伝がある。そうした時、その体操を拒否することは、単なる体操するかしないかを選択することではない。

 その体操を選ばない、つまり目の前にぶら下げられた体操をしないということは、足腰の痛みが解消しないこと、そしてその痛みを今後も我慢し続けなければならないことを意味しているのである。しかもその体操は、簡単なものから複雑で時間を要するものまで多種であり多様である。簡単なものは効果が少なく、複雑なほど効果が高いのか、それとも簡単でも内容によって効果が異なるのか。体操を宣伝する側は、「この体操こそが極め付き」と言い募るけれど、それを検証する手段は皆無に近い。

 例えばラジオ体操、やることでやらない人とどの程度の健康への影響があるのか、体操に費やした時間と健康などとはどの程度バランスがとれているのか、体操による悪影響というのは全く考慮しなくてもいいのかなどなど、それを具体時に理解できるような基準は示されていない。せいぜいが「早朝の運動は気持ちがいいだろう」、「体を動かして健康に悪いことなんかそもそもないだろう」程度の「気分の問題」くらいなものである。

 そして更に体操には、精神にまで効果があるとまで言われている。つい最近、「イスヨガ」という言葉を聞いた。言われて「ヨガ」もまた体操の一種であることに気づいた。そしてそれは健康管理を謳い文句にするだけではなく、情緒や精神の安定なども目的にしているのだという。そして「イスヨガ」とは、「椅子で簡単にできるヨガ」という意味だそうである。

 なんでもかんでも「お手軽にできます」、「効果は変わりません」、「私の言ってることを信じなさい」、そんな方向に私たちの思考がコントロールされていっているように思える。そういう方向に従うことが、私たちの日常生活の目的になりつつあるのだろうか。

 そして更に気になることに、そうした体操番組に付け加えられる常套文句の存在がある。責任回避とも思える言葉である。こんなにも有効であると視聴者に宣伝しておきながら、宣伝スタッフは最後にこんな一言を付け加える。「効果が見られなかったり悪化するようでしたら、医師による受診を勧めます」。

 それは正しいことなのかもしれない。そこまで責任は持てないよ、が本音なのかもしれない。でもそんな一言が私には、どこか責任逃れの無責任さの表れであるように思えてならないのである。


                                     2018.4.12        佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
健康とテレビ体操