朝の通勤はクラシックが多いけれど、夕方の駅までのラジオはおもにNHKのニュースになる。そんな中にアナウンサー(もしかしたら解説者だったかもしれない)とゲストとの対談放送があった。ゲストは、女性の写真家で彼女が撮影した写真を巡る話題だった(2018.2.16 17時過ぎ)。

 ラジオなので映像がない。だからその撮影した写真がどのようなものなのかはまるで分らない。分らないままこんなことを言っちまうのは独断と偏見になるかもしれないけれど、その会話がどうにも気になってしまったのである。

 話題の写真は、幼い女の子が着るワンピースを撮影したものらしい。赤や緑の衣装で、いかに美しく撮るか、着るであろう女の子の嬉しさみたいなものを映像として残したい、そんな思いを写真家は語っていた。

 そのことは別に何とも思わない。どんな写真家だって、被写体に対する思いがシャッターを切らせるのだろうし、そうした思いが印画紙に表れているかいないかはともあれ、写真家のシャッターを押す思いそのものを否定するつもりはない。ただ、対談のアナウンサーが放つ写真に対するコメントが、どうにも気になってしまったのである。

 アナウンサーはこんな風に話したのである。「写真から、カメラマンの思いが伝わってくる」。そしてその一言を聞いて私は嘘だと思ったのである。

 冒頭に掲げた写真は私が勝手にネットから取り出したものなので、話題となった写真とはまるで違う。それでも私は思ったのである。写真だけで撮影者の思いが伝わることなどないのではないか、伝えることは無理なのではないか、そんな風に思ったのである。タイトルに掲げた写真だけから、あなたなら何かの歴史や持ち主の思い出などを感じただろうか。そしてその感触は正しいのだろうか。

 写真が写真家の思いを伝えるのは、たとえば写真集なら冊子のタイトルや説明文や解説文、写真展なら写真に付された説明やタイトル、更にはギャラリーの入口に掲げた看板などの「文字による写真の説明文」などがあるからなのではないかと思ったのである。

 このラジオ対談で話題になっている写真は、広島における原爆の遺品のワンピースを写したものだそうである。私はアナウンサーがその事実を事前に知っていたから、原爆のおぞましい被害の様子がそのワンピースの写真から伝わってくると感じたのではないだろうか。事前に何の説明もなく、単に赤いワンピースの写真を見せられただけでは、決して原爆に対する撮影者の思いがその写真から伝わってくることなどないと、その時私はふと思ったのである。

 原爆投下は1945年ことだから、既に72年を過ぎている。撮影されたのがいつかは分らないけれど、恐らく原爆記念館か別の展示場に保管されていた遺品であろう。恐らく70年に近い歳月を経た、恐らく薄汚れ色あせたワンピースであっただろうと思う。どんなに良好な保存を心がけたとしても、70年という歳月はその展示物を風化させてしまうに十分だろうからである。

 さてそうしたとき、撮影された被写体が単独でどこまで被写体の実体を超えて歴史を示してくれるだろうか。歴史になるには、70年が必要だとは必ずしも思わない。たとえ10年でも20年でも、その品物には観念的には歴史があることに違いはない。そのワンピースには、70年前の原爆の記憶が染み付いているかもしれないけれど、それを言ってしまったら、古物屋に並ぶどんなリサイクル商品にだって、自分や我が子の思い出、亡くなった母の記憶、恋人との出会いや別れなど、いわば雑多な歴史が染み付いているはずである。

 着ていたものに限るものではないだろう。電化製品にだって指輪や中古のマイカーや壊れた自転車にだって、どんな物にも使ってきたという時間を経過した意味での歴史や思い出がある。ただ、その遺された物の歴史は見ただけでは分らず、何らかの説明がないと伝わらないと思うのである。赤い色や緑のワンピースの写真を見ただけで、どこの誰がその写真と原爆とを結びつけるだろうか。その写真に込めたカメラマンの気持ちがどんなに深かろうとも、解説のないその写真は何の言葉も発することのない単なる「写真」にしか過ぎないのである。

 私たちは、その写真が原爆記念館に収蔵されている遺品の一つであるとの、解説なり、示唆する他の組み写真などと並べられることで、始めてそれを被曝遺品と認識できるのである。そしてそれにつながるように、広島・長崎の悲惨さをその写真に重ねることができるのである。

 私は写真に意味がないと批判しているのではない。写真には訴える力がないと否定しているのでもない。中には被写体そのものが意思を持つ映像があるだろうことだって認めるのにやぶさかではない。

 それでもこの対談で示されたであろう、赤や緑の薄汚れた写真だけから、被曝の悲惨さが伝わってくることなど決してないだろうと思ったのである。そして被曝遺品の写真であることを、何らかの方法で伝えたという事実が、その写真を原爆の悲惨さを伝える一枚に仕立て上げたのではないかと思ったのである。

 対談のアナウンサーが、余りにも写真から原爆の悲惨さが伝わってくるような言い方をしたものだから、ついそのことに私がへそを曲げただけのことである。その悲惨さは、被曝遺品の写真であることを伝えた他の手段、例えば看板、解説、タイトルなどなどの相乗効果によるものではないかと、私はいささかのへそを曲げたのである。ただ、それだけのことである。決して対談を否定しようとしたのでも、ワンピースの写真を卑下しようとするものでもないことを、改めて言い訳したいと思う。


                                     2018.2.23        佐々木利夫


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