「・・・『優しさ』は必ずしも看護師の専門知識や判断力を前提としない」とする投稿を読んで、ふと違和感を覚えてしまった。朝日新聞の特集記事「けんこう処方箋」に投稿した、札幌医大保健医療学の女性部長の意見である(2018.7.4、朝日)。

 彼女がある人から「どんな看護師を育てたいのか?」と質問され、その返事に納得しなかった質問者から「優しい看護師ではダメなのか?」と再質問されことが、この投稿のきっかけになったようである。

 投稿者は「優しい看護師」というのが、必ずしも目標ではないことを言いたいのだと思う。その理由を彼女はこんな風に表現する。「手術翌日に点滴台を押しながら『病棟を歩け』と離床を促す看護師を、患者は『優しい』とは捉えないかもしれない。しかし、看護師は歩くことが回復を促進するのを知っている・・・」。

 私はこれを読んで、この投稿者は「優しさ」の意味を勘違いしているのではないかと思ったのである。彼女の抱いている「優しさ」とは、歩けるようになるかもしれない患者に対して、その患者の言い分であろう「面倒くさい」、「つらい」、「痛い」、「苦しい」などの理屈を、丸ごと叶えることだと理解しているのである。

 もちろん彼女は、優しくしない指示が逆に患者の回復に役立つことを根拠としている。そしてそれこそが正しい優しさなのだと理解している。そのことを否定するつもりはない。ただ、その「優しさ」の意味を誤解しているのではないかと思ったのである。

 更に彼女は、「・・・『優しい』という一般用語はいかようにもとれる概念で、専門職の実体を表すものではないからだ」とも言う。つまり、患者や一般人が使っている「優しさ」と、看護師の理解している「優しさ」とは別次元の概念であると言うのである。

 それはそれで一つの見識ではあると思う。同じ言葉でありながら、使う立場で異なった意味を持っている場合があるという理屈は、あながち間違いだとは思わない。長く税法という法律の分野に携わってきた身にしてみれば、一般用語と法律用語とで時に意味なり解釈が異なる場合があることを知らないではない。医療関連用語だって、芸能界やスポーツ界にだって、同じ言葉でありながら異なった解釈を持つ言葉があったところで、それを否やということはできないだろう。

 たがこの投稿の最初は「ある人から、『どんな看護師を育てたいのか?』と聞かれた。」で始まっているのである。そしてその人に対する彼女の答が「気に入るものではなかったらしい」として、「優しい看護師ではダメなのか?」に続くのである。

 彼女に質問した人は専門の介護職とは無関係な人であろう。なぜなら、その人が「専門職の実体をあらわす用語」として「優しい看護師」のイメージを質問した、とは思えないからである。質問者はいわゆる普通の人だと思うのである。

 それに対し彼女は、その質問の意味、つまり一般人の理解している優しさの意味を理解することなく、専門職の実体を表す用語としての優しさを、しかも専門外の人、更には新聞の読者にまで語っているのである。そして、しかもその食い違いを質問者に理解させることなく、問答無用とばかりに自分の立場と意見を元にこの投稿を展開しているのである。

 そして極め付きがこの投稿のタイトルである。彼女はこの投稿のタイトルを「患者が求める『優しさ』とは」としている。このタイトルが投稿者自身の発案によるものなのか、それとも新聞社の編集の意見によるものなのかはもちろん私には分らない。それでも、このタイトルで発表することを投稿者は承認したはずであり、だとするなら、それはそのまま投稿者の責任である。

 私がここで言いたいのは、このタイトルは「患者の求める優しさ」と「看護師が与える優しさ」とは違うものだと断言していることである。彼女は患者の求める優しさは、専門的な実体を理解していないということを前提としている。だから、患者の求めに妥協してはならないのである。優しさとは飽くまでも看護師の専門的な知識に基づく優しさだけが認められるべき優しさなのだと確信しているからである。

 こうした理屈を進めていくと、患者の求める優しさとは「許されないわがままな要求」ということになる。そこには、患者の意思に迎合してはならないという、患者の意思を無視しても専門的実体に基づいた優しさの実行だけが求められることになる。

 投稿者はそこまでの強固な意見を述べたつもりはないのかもしれない。患者の言うことばかり聞いていた際限なくわがままが広がり、それは結果的に患者の治療には役立たないどころか悪影響を与えることすらある、そんなことを言いたいだけなのかもしれない。

 だとするなら、ここに欠けているのは、患者とのコミュニケーションである。患者の納得を得るための努力である。一昔前に医師と患者との間に「インフォームドコンセント」、訳すると「説明と同意」という互いの了解が必要だと言われたことがある。

 恐らくこの意見は今でも必要なこととして生き残っていると思う。そして同意とは、医師の権限や権威や能力による押し付けと我慢ではなく、分りやすい言葉、理解できる説得力、患者の身になった表現などが求められることを意味している。

 つまり説明と同意とは、「俺の目を見ろ、何にも言うな」、「黙って俺に任せておけ」ではなく、患者が治療上の危険も含めて誤解していないか、本当に指示の内容を理解しているか、万が一の危険も含めての同意なのだと確信することを言うのではないだろうか。それは別に医師と患者という関係に限るものではない。看護師と患者との間でも同じことが言えるのではないだろうか。

 そしてその上で、それでも患者が患者が医師や看護との言い分と違う要求をしたのなら、それは無視してはいけないのではないだろうか。投稿者は例として、手術翌日に「病棟を歩け」と強要することが看護師の優しさなのだという。

 恐らくそうした背景には、「今歩かないと将来歩けなくなるよ」、みたいな気持ちがあるのだろう。本人には酷かもしれないけれど、いま無理やりにでも歩かせることが、将来の本人のためになるとの思いがあるのだろう。そうした気持ちが分らないというのではない。だがそれは相手にきちんと理解させた上で実行させるべきものなのではないだろうか。患者が望まないのに「歩け」と要求することは、看護師の一方的な意志の押し付けであり、患者の意思を無視した思い込みではないだろうか。

 もし患者が「歩けなくなってもいい」、「いま歩くのがつらいから歩かない」と懇願してもなお、「歩かせる」ことは優しさになるのだろうか。それを「優しさ」という言葉で一くくりしてしまっていいのだろうか。嬉しい優しさもあれば、避けたい優しさもあって、その先に本当の優しさがあるのではないのだろうか。優しさとは決して「甘やかす」ことだけを意味するのではないはずである。そこに投稿者の誤解の根源があるように思う。

 私にはこの投稿者の言う「専門職の実体」という表現が、「患者は文句を言うな、餅は餅屋にまかせて黙って従えばいいのだ」という、独断的な意見を強いているように思えてならない。彼女の意見は自分だけが正しく、患者はどんな場合もわがままばかり言う始末に終えないクレーマーなのだと思っているように思えてならないのである。

 私は自らの信念に反する意見で、それがたとえ「専門的実体」に反する意見であっても、相手の言葉に耳を傾ける、これもまた看護師のみならず人と人が互いに生きていくうえでの要件なのではないだろうかと思っている。それこそが多様性への架け橋であり、理解と納得の基礎になるのではないだろうか。


                                     2018.7.11        佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
優しさと迎合