「予防もいいけどケアのプロを育てるほうがもっと大事」と彼女は言う(2018.7.4、朝日新聞「無理に押し付けないで」、映画監督 女性60歳)。その通りだと思う。実感的には自助努力で介護を受ける時期を遅らせるような努力も必要だとは思うけれど、受けざるを得ないような状態が必ずしも自助努力のみで解消するわけではないからである。

 だから、「両方大切」などと八方美人のようにまとめてしまうと、いいとこ取りの模範解答になってしまい、その分だけ結論の見えない抽象論に終始してしまう。

 投稿した彼女の言い分は、自宅療養というか自宅介護をめぐる周りの人たちの対応についてのものである。介護の必要なのは認知症になった彼女自身の母親である。そしてその母が娘の介護を受けつつ過ごす姿を映画化したことに端を発した話である。

 彼女の主張の根幹は、認知症に陥った人やその人に向き合っている高齢の家族や親に対して周りの人たちが、「もっと予防に取り組んで・・・」とメッセージを発することで追い込んでいないかということである。「予防すること」への要求が時に介護する者される者とって強制となり、時に無理強いという悪影響を与えているのではないかとの主張である。

 そのことは分る。例えば「予防のための運動や行動」が、本当に介護を受けている者に対して親身かつ必要な手段になっているのかを考えるべきであるとの主張は正しいだろう。医師や看護師や周りの人たちなどが、「本人にとって良かれ」と思って様々な措置を取っているであろうことを否定しようとは思わない。

 ただそうした善意が時に「小さな親切、大きなお世話」になってしまったり、親切とは逆方向の強制や無理強いにつながってしまうことだってあるだろう。私たちは、相手の本当の気持ちを、本当に分った上で行動を起こすことは少ないからである。相手の気持ちを推し量ることはあっても、本当に相手がそれを望んでいるのか、喜んでいるのかは分らないからである。

 そこで彼女は、こんなふうに投稿を結論付ける。「・・・予防(よりも)、むしろケアのプロを育てるほうがもっと大事です。病気の状態だけでなく本人の性格、それぞれが歩んできた歴史を踏まえた、その人にあったケアをできる人材です。そうしたプロによるケアは本人の安心につながり、周辺症状もやわらぎやすい。・・・まず寄り添って一緒に楽しめるケアのプロを増やす。そんなスキルを持つ人が多くなれば、社会の目も変わる。認知症の人が何百万人増えたって心配はいりません。」

 こうした意見の背景には「・・・いまのように、ケアの多くを家族が負担し続けるのはもう限界にきています」との彼女の思いがある。そのとおりである。認知症だけに限るものではないだろうが、「身内で介護する」という現状は、介護する者、される者の共倒れを招いている。

 テレビで在宅介護を受けている者の、看取りまでを綴ったドキュメントを見たことがある。けっこう高齢の優しい医師が、これまた優しい看護師を引き連れて週に何度が一軒家に訪ねてくる。診察に加えて時折冗談も交えながら患者を優しく見守っている。外は暖かい日差しで、患者も家族も医師も看護師も穏やかで、そこには優しい時間が流れている。

 在宅介護には、医師だけが必要とされるのではない。歯磨きも専門の歯科医が定期的に訪問してくる。毎日の食事も、介護食専門の調理師が老人の口に合うように加工した、「ふわふわオムレツ」だとか「粉砕して成形しなおした刺身」、「食べやすく加工した煮物」などなどを提供するのである。「おいしい」、「やわらかい」・・・、満足な老人のにこやかな顔がこれに重なる。

 車椅子での移動、デイサービス、時にお花見、そしてトイレの介助や点滴の交換や痰の始末などなど、数人の専門スタッフが入れ替わり立ち代り、その老人に優しく接してくれる。やがてその老人に最期の時がくる。もちろん医師が立会い、その回りを涙の家族が取り囲む。まさに、理想的な「臨終の時」であり幸せな看取りの瞬間である。

 そんな風景に、私は否やを言いたいのではない。むしろ、自身がそうなりたいとすら思っている。こんな環境こそが、もしかしたら望む死なのかもしれないとまで思う。

 このテレビの老人は、まさに医療から食事や運動などの散歩まで、ケアのプロに囲まれて生活している。しかもそこは長年住み慣れた我が家であり、そんな中で旅立ったのである。何が理想の死かは人それぞれによるだろうけれど、幸せな旅立ちであったことに違いはないように思う。

 そしてそのとき思ったのである。その「幸せな最後」のための費用を、一体誰が支払ったのか気になったのである。そしてこの思いに投稿の彼女の言う「認知症の人が何百万人増えたって心配はいりません」の語を重ねてしまったのである。

 しかも彼女の言う介護には、本人の性格や歴史を踏まえたその人に合ったケアまで含んでいるのである。そのためには、どれだけ多くの人材や研修システム、どれだけ専門的な知識、そしてどれだけ相手の身になれるような人格的な優しさへの要求、更にそれに見合う報酬が必要なのだろうか。

 家族の介護が限界に着ているとの思いは、結局は「介護に終わりがない」ことが背景にある。三日で終わる、一ヶ月努力したら解放される、一年間は頑張ろう・・・、そうした区切りが見えないから、「終わりのない介護」に家族は疲れ果ててしまうのである。

 テレビで放映された老人が、どこまで裕福だったかは分らない。それほど立派な邸宅に住んでいるようには見えなかったけれど、介護のために惜しみなく使える資産があり、日常生活の介護や会話などに十分賄えるだけの力のある裕福な家族が控えているのかもしれない。

 だが、そうしたいわゆる「お金持ちのための終末介護や看取り」を前提に、これからの例えば団塊世代の介護問題を論じることはできないだろう。ましてや経済が混乱し、非正規やフリーターやパートタイマーなど、いわゆる「お金持ちでない人や階層」の増加があり、これからも増加していくであろうからである。

 そういう社会環境に向かって、医療・介護・食事・運動・娯楽などなど、老人が望むであろう様々な要求に、それぞれプロを育成し充実策を図ることが、どれほど実現性があるだろうか。一人の老人に、医療も含めた介護のスタッフは二十四時間体制で、しかも多数人必要となる。もちろん介護のスタッフよりも、老人は先に死ぬだろう。それでも先の見えない介護がそこにある実態に変わりはない。

 そこまでの費用を、介護保険の増額で対処するのか、それとも公共投資や公務員の人件費や様々な外交費用、そして国防などの安全などを犠牲にしてでも、税金で賄うというのだろうか。その辺の議論がこの新聞投稿の彼女の意見からは、少しも見えてこないことが気になった。

 政府や国家といえど、打ち出の小槌を持っているわけではない。どんなことにも、何をするにも、そこに費用の存在を抜きに考えることはできない。その費用は「介護保険」と名づけようが、はたまた「所得税・法人税・消費税」などと名づけようが、結局は国民一人一人の懐から集めるしか方法がないのである。

 金を考えない福祉・・・、それはまさに絵に描いた餅でしかない。それがどんなにおいしそうに見えたところで、少しも腹の足しにはならないのである。飢えた腹にはビフテキの絵ではなく、たとえ不味かろうとも野草や何なら蛇や蛙の肉でないと空腹を満たすことはできないのである。介護や医療の優しさも、気に入ろうが入るまいが、つまるところ「お金の問題」に帰するのである。


                                     2018.7.19        佐々木利夫


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予防よりもケアのプロ