世論調査と言っていいのか、それとも単なるアンケートと名づけていいのか分らないけれど、その回答に「どちらとも言えない」という意見が最近やたら増えてきたように思う。しかもその意見が回答総数の一位を占めるほど多くなっているケースもある。

 そうしたケースの増加は、国民に対する意見を求める機会が多くなってきたからなのか、それとも質問そのものの権威が薄くなってきたからなのか、そこんところはよく分からない。

 一昔前なら、「世論調査」という呼び名は、まさに「世論の調査」であり、回答する側も「私が世論の代表として選ばれた」との気持ちが強かったように思う。調査の結果がどんな風に政策に影響を与え、どんな変化を社会に与えるのかは分らなくとも、少なくとも回答には世論の一人としてある種の責任感が付与されているとの自覚があったような気がする。

 それは、一つには調査方法の違いがあるのかもしれない。かつての世論調査は、個別調査というか直接面接して回答を求める調査が基本であった。街頭での出会いにしろ、はたまた自宅への戸別訪問にしろ、調査者と回答者が一対一で面接し、ダイレクトに質問を受け回答した。

 ところが今はすべて電話である。面談のような方式がまだ残っているのかどうか、寡聞にして私は知らないが、恐らく皆無であるような気がしている。つまり、個別聴取であることは違いないようだが、面接という場面がまるで消えてしまっているのである。

 だからと言って、電話による回答がすべて無責任になるとは必ずしも言えないだろう。私も、質問者の顔が見えないことから嘘をついてもばれる心配もないなど、回答の信用性が失われると言いたいのではない。

 それでも回答者に対するアンケートに対する責任性がどこか浮いてしまうような傾向は避けられないのではないだろうか。世論調査と銘打ってして質問するのか、単なる傾向を見るだけなので気軽に答えてくださいとして回答を求めるのか、その辺のことは必ずしも私は分っているとは言えない。

 世論調査というのは、常にそうだとは思わないけれど、国民の意思を知るために行う手段の一つとしての意識は、少なくとも私にはある。恐らくかつては、回答者全員がそんな自覚を持っていたのではないだろうか。選挙結果は事実として「社会や国民の意志」になるのに対し、世論調査はそれよりもやや低位の位置にあることは否めない。国政選挙や国民投票などと世論調査とでは、単に国民の全数対サンプルと言うデータ数の違い以上に、思いそのものの違いがあることは否定できないだろう。

 確かに世論調査は、少数のデータ(統計的には有意なのだろうけれど)から世論、つまり国民の意思を探ることを目的としている。にもかかわらず「直接面接」でないことからくる、一種の安易性が回答結化を緩いものにしているのかもしれない。

 それは今行われている世論調査に対する国民の回答への重みの違いに現れてきているように思う。国民の全部と言っていいほどにも電話が普及し気軽に質問を投げかけられるようになった。そのことは逆に、電話を受けた者が簡単に回答から逃れることができることにもつながってくる。「忙しい」にしろ、「面倒くさい」にしろ、はたまた関わりたくない、更には回答する行為そのものが嫌だと思っているにしろ、「回答しない」ことへの選択が容易になつたのである。

 これはつまり、回答に対する責任の重さが軽くなったことを意味する。それがこの「どちらとも言えない」という回答に表れてきているように思う。

 もちろん、他者から質問されたとき、その回答の選択肢に質問者が、「右」、「左」だけでなく、「どちらとも言えない」という項目を作ったこと自体に問題があるのかもしれない。選挙で、A、B、Cと言う立候補者の中から一人を選ぶとき、その中に「誰でもいい」、「この中には一人もいない」、「Aに30%、Cに50%」などの多様な選択ができないのは、選挙の仕組みが悪いのだろうか。それとも一人を選ぶか選挙に行かないのいずれかの選択しか認めないのが、選挙のシステムとして正しいのかどうか、そこのところは分らない。

 だから、「どちらとも言えない」という回答を、回答者の優柔不断に押し付けることは必ずしも妥当しないかもしれない。それでも、そんな回答が回答の過半数を占めるような世論調査は、質問者の責任なのか回答者の責めなのかは断言できないとしても、どこかシステムとして欠陥があるように思えてならない。

 それをいかにも「社会の意志」、「国民の選択傾向」であるかのように取り扱うメディア、そしてその結果を自己の便宜のために利用し、時にその結果に「一喜一憂しない」などとして無視することで批判を交わそうとする利用者の意図が、どこか不純なように思えてならないのである。

 こう考えてくると、世論調査というものが、回答の信頼性どころか回答結果を利用する者の恣意的な採用も含めて、まるで価値がないように思えてならない。それは、私たちが今生きている現代日本の姿をダイレクトに示しているのかもしれない。

 確たる意志をもたず、「どちらとも言えない」との選択は、「どちらでもいい」との無責任な意志をも示しているように思える。少なくとも今の日本人は、「こうしたい」という将来に対する確たる意志を持てないでいるのかも知れない。そしてそれは単に「なんとかなる」というあやふやな保証から来るものではなく、なんとなく「誰かが何とかしてくれるだろう」との、まるで根拠のない無責任さにあるような気がする。それは日本の将来のみならず、我が身の明日もまたそうした漠然たる日和見に委ねられているということなのかもしれない。


                                     2018.9.29        佐々木利夫


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どちらとも言えない