昔聞いた話である。子どもにニワトリの絵を描かせたそうである。小学校の生徒になのか、それとも幼稚園児に書かせたのかは忘れてしまった。覚えているのは、その絵の中に四足のニワトリが何羽も混じっていたそうである。つまりニワトリは四足であり、加えて羽が生えているとその書いた子は思い込んでいたという話である。

 この話は新聞か雑誌の投書で読んだのか、それとも何かのエッセイだったのか、それも忘れてしまっている。ただ、その絵に対する先生の思いだけが強烈に残っている。それはつまり、「今時の子どもは、こんな常識も知らないのか」という、一種のあきれが見て取れたことである。言葉を代えるなら、「なんと非常識なことか」との感想であり、それは子どもに対する批判ではあるけれど同時に、「子どもには、しっかりとした教育が必要だ」との思いを含めた意見だったような気がしている。

 そうした思いは、それはそれで間違いではないだろう。「ニワトリは四足」が間違いであることくらい、私たち大人にとっては常識である。だから、ニワトリに限らずすべての鳥は二本足であり、その羽は前足が変化(進化)したものであることをきちんと教えることは、教育の持つ大切な使命だろうと思う。そしてそれは知識としてのみならず、鳥に実際に触れさせることで体験として理解させることも教育の一環だろう。

 ところで、空想世界の出来事だと言ってしまえばそれまでのことではあるけれど、私たちは四足のニワトリを実際に想像したことがあるのである。それがどの程度の想像なのかは、人それぞれ異なるだろうけれど、私たちは確実に羽の生えた「鳥以外」の動物を考え出しているのである。

 一番分りやすい例が、天馬だろう。羽の生えた馬にまたがる勇者や神の姿は、私たちにそれほどの違和感を与えることなく浸透している。天馬は間違いなく「四足+羽根」で構成されており、人を乗せて自由に天駆けるのである。

 そう考えると、天馬以外にも空飛ぶ動物は、私たちの生活に驚くほど沢山存在している。もちろん現実に存在しているというのではない。あくまでも想像上の動物には違いないだろうけれど・・・。

 空飛ぶ動物は、馬だけではない。猫も、豚も、ライオンなども四足であるにも関わらず、私たちは特別な場合にはこれらの動物、そして人間にもに空を飛ぶことを命じたのである。身近な例として「天使」がいるだろう。天使がキリスト教固有の存在なのかどうか、私にはその役割も含めてまるで知識がない。それでも羽の生えた幼児の姿は何の違和感なく私たちの日常に入り込んできている。

 そういえば「妖精」もまた人間の姿をした羽根のある生き物である。サイズこそ人間よりも小さいらしいし、なぜか私の中でその性別が「女」としてしか浮かんでこないけれど、とりあえずは「神通力を持った羽根の生えた小型の少女」として位置づけられているような気がする。

 もう少し思いをめぐらすと、羽根は四足だけに与えられているとは限らないことも分ってくる。蛇である。羽根の生えた蛇の姿を、私は絵だとは思うけれど見たことがある。もちろん、蛇に足がないことだって、進化の過程における一種の経過にしか過ぎないのだろう。蛇も恐らくもともとは足のある生物から進化したものであろうと思う。蛇の骨格のなかに、退化した足の痕跡があると書いてある本を読んだように記憶しているのは、単なる私の錯覚だろうか。

 このように考えてくると、羽根の生えた動物という発想は、単に「羽根の生えたニワトリ」という笑い話を超えて、私たち人類に普遍的に存在する「何かの思い」を象徴しているように思えてくる。

 私の稚拙な知識によれば、世界に様々の神は存在しているけれど、羽根の生えている神はいないような゚気がする。天使も妖精もどちらかというと神のしもべの位置にあるから、神性の象徴として羽根を考えたのではないように思う。つまり羽根は、限りなく神になることの願望の象徴、極限ではないのではないかということである。

 だとするなら飛翔願望だろうか。確かに、人は昔から空を飛びたいと願い続けてきた。鳥の真似をして、腕をぱたぱたさせて丘から飛び降りることから始まり、羽根もどきの人工の翼を腕に飛び降りることまで試みた。そしてそれは現代へと続き、空飛ぶマシンとして成功した。そうした空飛ぶ願望が、自由へのあこがれからきているのか、それともそもそも未知への好奇心だったのか、そこまでは分らない。それでも、「空を飛びたい」という切実な願望がそこにあったことだけは理解できる。

 こうした思いを重ねていくと、私はキメラを思い出す。キメラとは「ライオンの頭、毒蛇の尾、ヤギの胴をもち、口から火を吐くというギリシャ神話の怪獣」である。残念ながら羽根こそ生えていないようだが、こうした異種生物の合体みたいな発想は現代でも生き残っている。

 映画の世界では蝿男や蜘蛛男が有名であり、サイボーグと呼ばれる人工物と生物細胞の混合型もまた、こうした仲間に入るのかもしれない。そうした発想の先に、例えばクローン人間などがあるのかもしれない。

 カフカはザムザを虫に変身させた。アニメの世界は変身や合体が当たり前になっている。人はどこかで変身願望を持っているのかもしれない。それは単に空を飛べるだけにととまらず、より力強く、より高く、より困難に耐えられる体に変わろうとしている。

 こんな言い方は、オリンピック選手の言い分と似ているような気がするし、人として間違った発想だとは思わない。それでも人はいつも、自分以外に変身したいと願うものなのかもしれない。

 ニワトリの卵に豚の精子を移植したら、四足のブロイラーを大量生産することができるのだろうか。そして人間の卵子にニワトリの遺伝子を移植したら、かわいい天使が生まれてくるのだろうか。


                                     2018.1.24        佐々木利夫


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四足は飛べるのか