でっかい夢を持て、人はよくそんなことを言われけれど、夢の大きさは結局金持ちかどうかに左右されることが多いのではないだろうか。どこからが金持ちで、どこから貧乏人なのかは難しいところかもしれないけれど、どんな和歌の上の句にもしっくりと収まる下の句があるいう。

 まさにどんな上の句にも適合するのである。それはたった一言「それにつけても、金の欲しさよ」である。百人一首の「乙女の姿」の上の句である「天の原振りさけ見れば春日なる・・・」だろうが、あらゆる和歌、狂歌にだってたちどころにこの下の句は、ぴつたりと寄り添うことが出来る。

 万事金の世の中、金がかたき、現実の社会の善意から悪意までのあらゆる事態に、金がその力を発揮していることは間違いない。そしてそれを始めから所有している者、していない者が、はっきりと区分されているいるのである。

 夢の大小は金の大小で決まると言ってしまったら、「そんなことはない」との反論がすぐにも聞こえてくるだろう。また夢は大小で判断するのではなく、向かう力の大きさで決まるとの意見も聞こえてくるような気がする。政治家が講演会で夢の大小についてこんな発言をしたら、恐らく百叩きとも言われるような批判を浴びることだろう。だが批判する人たち、時にメディアとか国民とか社会人と呼ばれる正義の士も、内心ではその通りだと思っているように私は感じる。

 なぜなら、現実がそうだからである。夢の中味というか可能性にもよるだろうが、夢の出発は「その人の思い」である。夢想も白昼夢も夢の仲間だと言われれば返す言葉がないけれど、夢の多くはその人の置かれた状態を基礎として発生するものである。

 野球ができるような環境になく、自宅のテレビでも野球中継の嫌いな親の元で過ごした子どもが、甲子園に憧れるようになるはずはないと思うのである。親にどんなに反対され、野球をするような環境を与えられなかった少年が、甲子園出場を夢見るケースが皆無だとは言えないだろう。

 だが、夢の多くはその夢につながる環境に育っていることが動機になると思うのである。バレリーナもピアニストも、そうした環境にない場合は、その夢そのものが発生しないのである。そしてその環境そのものが、金によって成立しているのである。

 歌手やテレビスターなどが何億円もの豪邸を建てたとか、ある企画に投資して何十億円もの借金を作りようやく返済して今がある、などの放映を聞くことがある。それも一つの夢の実現なり夢の喪失だったのかもしれないけれど、例えばサラリーマンはそうした夢を抱くことはないのである。何億円の豪邸は「永久に実現しない夢」なのである。何十億円の借金することそのものが不可能なのである。それは夢ですらないのである。

 見果てぬ夢をこそ、夢と呼ぶべきなのかもしれない。実現可能な夢は、夢の範囲にすら入らないのかもしれない。見果てぬ夢を追うことこそが「夢」なのであり、その実現へとひたすらに向かうことが「夢」そのものの本質なのだと言うかもしれない。

 でも、金輪際実現しない夢は、果たして「夢」としての意味があるのだろうか。もちろん「努力した者こそ夢は訪れる」のだし、「努力しないものに思いの実現はない」のかもしれない。それでも、私たちは努力の範囲を知っている。実現の可能性の範囲を知っている。

 それは「知っている」のではないのかもしれない。恐らくは「知らされてきた」のだと思う。そして実現の可能性の多くは、金にからんでくるのである。私の親に有り余る金があり、専門のコーチをつけて、糸目をつけずに甲子園に行けるような可能性のある高校に入学させ、学校への寄付も存分にしたならば、恐らく私は正選手ではないかもしれないけれど、少なくとも補欠として甲子園出場を果たすことくらいは可能なのではないだろうか。ましてや、私が野球が好きで、多少なりとも能力があるとしたら、甲子園への機会は更に増すことだろう。

 どんなに能力があったとしても、中学卒業で親の手伝いで農業に従事するしかないような家庭に育ったなら、野球をすること自体に無関心になっているのではないだろうか。ピアニストや芸能人になろうと思うだろうか。

 だから人は、「実現の可能性のある夢」しか夢見ることはできないのである。そしてその夢を、お金の存在はそれなり後押ししてくれるのである。そしてそして、その後押しはお金が大きいほど効果があると思うのである。我が子の発表したCDを買い捲り、我が子のためにコンサート会場をセットし、入場券に恩典をつけて参加者を募り・・・、そんなことを続けていたならもしかしたら私の歌手になりたいとの夢は実現するかも知れない。アイドルにだってなれるかも知れない。○○になりたいとの私の見果てぬ夢は、それで叶うかもしれないのである。

 だからと言って私は、大きい夢が高級で小さい夢が下らないなどと言いたいのではない。夢の実現には本人の思いもさることながら、その夢が大きければ大きいほど、そして遠ければ遠いほどお金という環境が避けがたく影響してくることを言いたかったのである。
 だからと言ってお金が万能であり、金さえあればどんな夢だって叶うなどと言いたいのではない。ただ少なくとも、夢を抱くという思いそのものの中に、お金(財力)という環境(自身のみならず両親なども含めた)が大きく影響していることだけは間違いないような気がしている。

 夢の発想そのものに財力が関係しているなら、「発想しない夢」、「そもそも思いつかない夢」というものがあることになる。そうした夢は夢として浮かび上がってこないのだから、夢としての存在価値を持たないのだから「夢」ではないことになる。

 思いついてしまった夢が、お金のせいで実現不可能と分ったとき、私たちはどうしたらいいのだろうか。お金をかき集める手段を考えることも必要だとはおもうけれど、それでもむりなら別の夢に切り替えるしかない。切り替え可能の夢なんで夢の価値はないと言うかもしれないけれど、次の夢もまた捨てたものではない。挫折に苦しんで「夢なんて生涯見るもんか」と諦めてしまうよりは、次善の夢に挑戦することの方が人生はきっと楽しいものになるだろう。なんたって「夢見る」ことなのだから・・・。


                                     2018.8.4        佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
夢の大小