今でもこんなことが教育現場で行われているんだと、感心させられた記事を読んだ。北海道釧路市にある興津(おこつ)小学校(生徒数170人)でのことである(2018.3.6、朝日新聞)。
 この学校では生徒に体力つけさせるため、「おこつ体力修行」と題して雑巾掛けや「ケンパー」を取り上げているのだそうである。

 この学校の「ケンパー」がどんなものか知らないけれど、記事の写真を見る限り、私たちが子どもの頃遊んでいた片足飛びと両足着地をランダムに繰り返す遊びと同じようなものらしい。地面にチョークなどで20〜30センチほどの丸を、一列に一つもしくは2〜3個を重ねるように数段書く。列の最初がスタートで、向こう側までの重なった7〜10段くらい先がゴールである。遊び方は、丸一個のときは片足で着地(これを「ケン」と呼ぶ)、丸二個が横に並んだところは両足で着地(これが「パー」である)しながら跳びかつ進んでいくのである。丸三個の横並びの段なら、例えば右の二つに両足で着地し、そのまま両足で左横へ一つ飛ぶのである。丸一個がたてにいくつか並んだところは「ケン」をその数だけ繰り返すなど、決して丸から外れたり、丸の中で二度踏みしたりしてはいけないのがルールだったような気がしている。

 私には、雑巾掛けをゲームとして遊んでいたような記憶はない。学校の廊下や教室の床などの雑巾掛けは、掃除当番に当たった生徒の放課後の当たり前の役目だった。それを一種の体力修行に取り入れようとするものであろう。

 雑巾掛けがどこまで体力修行の手段として有効なのか、私はまるで知らない。まあ、体を動かす作業なのだから、多少なりとも体力増強に効果はあるのかもしれない程度の認識である。

 かつて体力修行のトップクラスとも言うべき位置にあった「うさぎ跳び」(かがんだ状態のまま、両足で飛び跳ねるようにして前進する運動)は、体や膝への負担が大きすぎるとの批判があって今では禁止されているらしい。このうさぎ跳びとケンパーや雑巾掛け運動がどの程度類似しているのかについても、私の知識にはまるでない。一時期、うさぎ跳びを繰り返しながら、丘の中腹にあるお寺への階段を集団で登る訓練風景は、スポーツ根性ものの一種の定番であったような気がしている。

 だからと言って、雑巾掛けが体に悪いとか、身体を増強する効果に意味がなく疑問だなどと主張したいのではない。また、雑巾掛けを体力増強の手段として利用するのを禁止しようと主張するつもりもない。

 ただ、この雑巾掛け運動について学校側が、「一人ひとりに『修行カード』を配っている」としていたり、「地元で働く警察官やプロのダンサー、フットサル選手らを招いて『キャリア教育』にも取り組んでいる」としてこうした活動を自画自賛している気持ちが、どうにも気になったのである。

 それは、この活動に精神論を重ねているように思えてならないからである。効果のある訓練なのなら、それを推し進めることに何の異論もない。また、その訓練を辛いと思う生徒がいたり、苦しいと思う生徒がいた場合に、それをなんとか軽減するために遊びの要素を加えるなどの工夫をすることだって、否定するつもりはない。

 だだ、「昼休みなどに挑戦したり」することで、この活動に授業から離れた位置づけを与えているのではないか、「決められたタイムを達成したりすると教員らからスタンプを押してもらえる」ことで、いかにも強制でなく生徒の任意性や自主性、更には射幸心に委ねているかのような味付けが気になったのである。

 「近年の学校では、床にワックスかけられていることなどから、子どもたちが雑巾掛けをする機会が減っている」ことは、記事でも認めている。このことと学校が発行しているという「修行カード」の名称などを重ね合わせると、そこに鼻持ちならない精神論の臭いが漂ってくるように感じられたのである。体力増強に名を借りた、雑巾掛けを利用した精神訓練、それを修行と呼んであたかも「訓練以上の付加価値がある」かのようなそんな臭いを、私はこの記事に感じたのである。

 精神論とくっついた修行であるとか訓練に模した様々が、いわゆる「根性を糺すため」として利用される例は、必ずしもスポーツだけとは限らない。軍隊でも、企業でも、更には学校などでも、集団を統率したいと願う指導者の下では、常に密接不離の活動として存在していた

 この学校の「雑巾掛け修行」に、こうした思いや意図があるとは思わない。思わないけれど、逆に思わないとする学校側の意識の中に、雑巾掛けに重ねた「無意識の修行意識」が見え隠れしているように思えてならないのである。

 もちろんそう思う背景には、「雑巾掛け」に化体された行動だと思っているという私の偏見がある。行動が「雑巾掛け」でなく、たとえば片足飛びであるとか鉄棒のぶら下がりなどのように、純粋に運動に特化した行動だったのなら、私がこんな思いを抱くことなどなかっただろう。

 私に雑巾掛けに苦労した記憶や、罰として強制されたような思い出があるわけではない。雑巾掛けに特別な先入観を抱かせるような記憶があるわけでもない。それにもかかわらず、この学校の取り組みには、単なる作業、つまり雑巾掛けが単なる運動であることを超えるような、何かの精神的な意味づけを持たせているような気がしてならないのである。


                                     2018.3.13        佐々木利夫


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雑巾掛けと体力修行