日々の事務所通いも、今年で20年を越えた。自宅から事務所まで片道約4キロ、最初は往復とも歩いていた。だが数年前から足首の痛みが強くなり、自宅近くの駅から事務所のあるの琴似までJRを利用するようになった。そして今年の9月からは、それに加えてこれまで徒歩だった駅〜事務所間も、バスを利用する破目になっている。

 ところでそのバスなのだが、昔の路線バスは運転手の外にもう一人女性の車掌が常に乗務していて、彼女が切符の販売や回収などをしていた。それがいつの頃からだろうか、観光バスのガイドなどはともかく、路線バスはすべてワンマンカー、つまり運転手一人による運行管理になってしまった。

 おまけにここにも電子化の波が及んできて、車外の行き先表示から車内の様々な表示や時にはアナウンスまで、自動でなされるようになってきた。私の乗るバスも例外ではない。

 そうは言っても、運転手が運転だけに専念し、一声も発しないわけではない。「パスが停まってから座席をお立ちください」とか、「お忘れ物のないように」、「次の停留所は○○です」など、運転手によって様々だが、「小さな親切大きなお世話」まで含めて、概しておしゃべりである。

 そんな中で気になったのが、タイトルに掲げた「バスが停まります」の発言であった。こういう言い方は、例えば「ドアが閉まります」、「右(左)へ曲がります」などでも同じである。

 バス利用は、これまで数え切れないほどある。日常と同じくらい当たり前に利用している。そうした利用の中で、これまでこんな言い方が気になることはなかったように思う。だが、最近違和感を感じるようになってきたのは、私のへその曲がり具合が変化したことを示しているのだろうか。

 私には、「停まります」ではなくて、「停めます」ではないかと思ってしまったのである。「ドアが閉まります」ではなくて、「ドァを閉めます」であり、「右へ曲がる」のではなく「右折します」でないかと感じたのである。

 言いたいのは、能動態である動作に、あたかも受動態であるかのような表現を使っていることについてである。バスを発車させたり停車させるのは、運転手自身の裁量による操作である。同じくドアの開閉も、運転手のスイッチ操作によるものである。

 もちろん裁量とは言っても、自由裁量と言うか運転手の身勝手に任せるような裁量ではない。バスから降りる客がいたり、路上で待っている客がいるときは、バスを「停めなければならない」のだし、乗降が終わったら「ドアを閉める」、「発車させる」は義務である。

 つまり裁量ではあるけれど、背後に義務の存在がある。だからと言って、運転手以外の例えば本部の特定の人間に運転を委ねているとか、AIなどのコンピュータが発進やドアの開閉をコントロールしているわけではない。

 発進・停車・ドアの開閉などは、運転手の任意の意志に任されている。たとえ背後に規律違反による罰則や、懲戒などの強制があったとしても、少なくとも運転やドアの開閉は運転手の自由意志に任されているのである。

 だとするなら「停まります」は間違いで、「停めます」が正しいのではないだろうか。ドアは「閉まる」のではなく、「閉める」と言わなければならないのではないだろうか。

 そんな小さなことに、いちいち目くじらを立てなくてもいいではないか、と言うかもしれない。そんな気持ちが分からないではない。でもどこかでこんな他律的な表現に、自己責任の回避みたいな思いが込められているように感じられてならないのである。

 例えば路面に凸凹があって、そこの通行が避けられないとする。そのとき、「バスが揺れます」とアナウンスするのなら分からないではない。バスが揺れることは運転手の意志によるものではなく、道路の状態という他律的な要素を原因とするものだからである。

 「停まります」も「揺れます」も、共に乗客に注意を促す言葉である。バスを動かすから転ばないように注意してくださいであり、ドアを開けるから車外に転げ落ちないようにつかまっていてくださいであり、ドアを閉めるから挟まれないように注意してください、そしてバスが揺れるから手すりにつかまるなどしてくださいの意味だからである。

 でも「停まる」、「閉まる」などの表現は、仮に転んで怪我をしても、開いたドアから転げ落ちても、はたまた閉まるドアに挟まれても、それは「私が停めたからではありません」、「私がドアを開閉したからではありません」との言い訳をしたいからのように思えてならないのである。

 そんな言い方は、バスは「私ではない誰かが停めるのです」、「ドアは別の人が開けたり閉めたりするのです」、「私の責任ではありません」との思惑が含まれているように思えてならない。

 もちろん「停まります」が、そうした言い訳を前提とした文言ではないかもしれない。また、仮にバスの停車の仕方が悪くて乗客に事故が起きたとしても、こうした文言だけで運転手の責任が回避されたり、軽減されたりすることはないだろう。

 にもかかわらずと言うか、だからこそ私はこの言い方の中に、無意識の責任回避の思いが含まれているように思えてならない。そしてそうした思いが、自らの意思による結果であるにも関わらす、あたかも他律的な意志による受動的な動作であるかのような表現を招いているように思えてならないのである。


                    2019.12.26        佐々木利夫


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バスが停まります