5月26日のNHKのEテレ番組、「人間って何だ、超AI入門」は、「カーテン開けて」とコンピューターに呼びかける映像で始まった。AIについてはこれまで何度も書いてきたし、コンピュータと関連すると言う意味では、私なりの知識もある。たとえディープラーニングが私にとってまるでチンプンカンプンな分野だとしても・・・。

 AIには興味があるし、それを利用したシステムが現代生活に確実に染み込んできていることは知っている。そしてその浸透に、時に驚き、時に落胆し、時に疑問を持つなどする私がいて、それなり関心の高い分野になってきている。

 タイトルの「カーテン開けて」は、人工知能に向かって人間の発した指令である。これを聞いたAIが、発音者がこの家の主人として登録された者の音声であると認識し、部屋カーテンレールに設置されたカーテンを開閉するモーターのスイッチを入れるのだろう。

 恐らくこの指令に従いAIは、止めろとの命令がない限り一杯一杯までカーテンを開けることだろう。それともその日の天候や命令者の好みの明るさなどを忖度し、三分開け、七分開け、片側開けなどに配慮してくれるのだろうか。

 それはともあれこの番組のこの命令を聞いて、私はどこかAIへの関心が薄れていくのを感じたのである。それは一言で言うなら、「あぁ、AIってこう言うもんなんだ」、「この程度のものなのだ」と、どこか醒めたような感触だった。

 実は私は、どちらかと言うとAIに対して、信仰とも言うべき一種のあこがれを抱いていた。その背景には、当然ながら私の無知があるのだが、その行く末に「鉄腕アトム」のような人間と交流のできる正義の人工生命体みたいなものを思い描いていたからなのだろう。

 さらにその背景には、人間は細胞と言う「個」としての物理的な物質からできており、中でも脳細胞という物質の集合が、記憶とか感情を作り上げているとの思い込みがあったということを否定できない。100億にしろ1000億にしろ、有限個の脳細胞の有機的な結合が、人間の知性なりを構成していると考えていたことがある。

 その有機的結合が、ディープラーニングなのか、ニューラルネットワークなのか、はたまた量子的結合なのかなど、どんなシステムで構成されているのかまるで分かっていない。それでもともかく、原子と言う物質で構成された細胞同士の連係が頭脳であるなら、メモリーとそれをつなぐプログラムによって、人間と区別のつかないいわゆる機械人間が作れるのではないかと考えたからである。

 人格も性格も、人間の持つ悪魔性も含めた様々が、メモリーの相互作用によるものなのだと考えられるなら、間もなくAIは人間を超えるだろう。そうした世界をシンギュラリティーと呼ぶか、はたまた神界と呼ぶかはともかくとして・・・。

 それと反対に、「人間は機械とは異なる特別な存在だ」(特別であることが優秀だと言う意味ではない)と考えるなら、そこに「人間は単なるメモリーの集合体ではない」とする発想が必要となる。つまり、倫理とか常識とか、更には芸術やスポーツなどの発想そのものが、メモリーとプログラムだけで構成された産物ではないとする思いである。

 それはもしかしたら、生命そのものの存在にまで遡らなければならないテーマなのかもしれない。もしくは、神の一撃とも言うべき宇宙の意志のような人間を超えた何かを考慮しなければ説明がつかないのかもしれない。細菌や犬猫に倫理や創造みたいな思いが存在するのかどうか、私には分からない。人間にだって「創造力のカケラもない者」も沢山いるだろうし、人非人と呼ばれたり、天才と呼ばれるなど、普通の人も含めて、人もまた多様だからである。

 例えば「人が人を信用する」のは、どこに原因があるのかを考えてみよう。数十億年と言った生物の進化が、「信用」というシステムを作り上げてきたのかもしれない。だとするなら、AIの経験した時間はまだ数年、数十年に満たないだろう。それとも、AIの考える速度が人間の数億倍、数百億倍もあるとするなら、人間が生物として経験した数億年の時間など、AIはあっと言う間に通り過ぎてしまったことになるのだろうか。

 AIの考える速度と人間のそれとはまるで比較にならないことは事実である。だとするなら、人間とAIとの交流であるとか会話などは、そもそも成立しないのではないだろうか。

 「カーテンを開けて」との命令に従うAIの機能を契機に、このエッセイを作り始めた。しかし、人間とAIの理解と言うか考える速度の余りな桁違いさを考えるなら、人間の放った「カーテン開けて」というたった一秒足らずの言葉を受け取るのに、AIは数百万年数千万年もに匹敵する時間を待たなければならない。

 もし仮にAIが人間と同じように感情を持つのだとするなら、そんなにも膨大な時間を、イライラせずに辛抱強く待ち続けることなど、果たしてできるのだろうか。それともAIに感情はないのだろうか。また、持ってはいけないのだろうか。そもそも持たせてはいけないのだろうか。

 更に、AIには時間という観念が、そもそも存在していないようにも思える。なぜなら、メモリーとプログラムでAIが構成されているのなら、AIの持つ記憶なり人格は完全にバックアップが可能だと言うことである。つまり、部品としての手足や顔などの物質としての寿命はともかく、「人間らしさ」としての思考回路は永久に残せることになるからである。

 バックアップのできる頭脳、それはそのまま人格の不死を意味する。不死でないにしても、数百年や数千年の生き残りは、AIには当たり前になるのではないか。数十年からせいぜい100年しか行き残れない人間がいて、そしてそれをはるかに超えるAIがいる。そこに対立や矛盾はないのだろうか。

 ならば、AIにも寿命を持たせるべきだろうか。感情を持ったAIは、そんな非道とも思えるような人間の要求する死の宣告を、果たしてどこまで承諾できるだろうか。それとも理解できずに人間相手に反乱を起こすだろうか。そしてそして、仮に寿命の設定を理解できるAIと理解できないAIとが混在するような世の中になったとしたら、そんな世界は私たちにとって、果たしてどんな意味を持つのだろうか。
       *********************************************************

  AI,をめぐる世界は、私にはどんどん分からなくなっていく。次回は「人工知能とブラックボックス」について書こうと思う。


                               2019.7.6        佐々木利夫


                   トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 

カーテン開けて