ディープインパクトとは競走馬の名前である。競馬にまるで興味のない私であるにもかかわらず、僅かにもしろその名を知っているということは、よほど巷間を賑わした馬だったのだろう。

 最近その名を見たのは、先月7月30日にその馬が死んだことを報じた記事であった(2019.7.31、朝日新聞)。記事には、史上最強馬と書かれていたから、恐らく誰もが知るようなとてつもない名馬だったのだろう。

 ところでここに書こうとしているのは、その名馬iについてではない。どんな名馬なのか書こうにも、私にはこの馬の記録であるとか知識などが、皆無に近いからである。名馬であることの記憶すら危ういからである。

 ただ記事に書かれていた「・・・29日に立てなくなり、30日に頚椎の骨折が見つかった。回復の見込みがないため、安楽死の処置がとられたいう。・・・」の一文が気になったのである。

 動物の安楽死に対する疑問については以前にもここへ書いた記憶がある。ただそのエッセイを探してみたのだが、うまく見つからない。内容が重複するだろうことを覚悟で、再度取り上げることにしたい。

 それは「安楽死をどうやって確認したか」についての疑問である。動物の安楽死については、それほど珍しくなく語られている。馬だけとは限らないだろうけれど、動物と人間との間にどの程度の交流が可能なのか、必ずしも私に分かっているわけではない。それでも仮にもせよ馬が、「死」、しかも「自らの死」について、人に語ること、もしくは自らの意志を伝えることなど、果たしてどこまで可能なのだろうか。

 特別な馬だったと言われているから、もしかしたら普通の動物とは異なる何らかの人との交流手段を持っていたのかも知れない。それでもディープインパクトが、そうした特別な能力を持っていたとは、俄かには信じがたい。

 つまりは、ディープインパクトといえども、自分の死について人間に語ることなどできなかっただろうと思うのである。以下は、そんな前提で書いていくことにする。だから、そうした仮定が間違っているなら、これから書く私の文章は、まさに荒唐無稽の噴飯物語と言うことになる。

 もちろんディープインパクトがそうした能力を有していないとしても、例えばペットと飼い主との交流のように、甘えや怒りなど、何らかの情緒みたいな意思を伝えることがあり得ないとは言えない。猫が擦り寄ってきたり、犬が飼い主を散歩に誘っていると感じるような、そんな日常動作を人が信じたとしても、その感触を嘘だとは思わない。

 でもことは「自らの死」である。動物が自分や仲間の死をどこまで理解できるか、様々に研究されていることを知らないではない(「死を悼む動物たち」、バーバラ・キング著、草思社刊)。それでも、まだ動物が死のイメージを他の種族たる人間に伝える能力があるとは、確認されていないような気がする。

 安楽死とは、私の知識の中では「自らの死に対する自己決定権」を意味している。それは「自分だけの死」であって、他者の死に対するイメージは片鱗も含まれていないと信じている。つまり、他者の介入など少しも許さない、自分だけの領域における自らの死だということである。そこには、説得も、同情も、強制も、あらゆる他者の意志の介入も許さない分野だと思っている。

 もちろん自己決定と言っても、その意思表示の時期も重大な要素となるだろう。理屈の上では、死の間際までその意志に揺るぎのないことが必要だろうと思う。だから死の瞬間まで、安楽死を望む揺るぎない意思の保持が必要になるだろう。

 そうは言っても、場合によっては死の間際が意識不明だということもあるだろう。その場合は事前における何らかの意思表示が求められることになるかもしれない。

 でも人間以外の動物に、遺言などの表示ができるとは思えないし、仮に飼い主などがその意志を主張したとしても、それを確認することなど不可能だと思う。つまり、どんな方法によったとしても、動物に安楽死の意思表示を確かめることなど不可能だと言うことである。

 そもそも安楽死と言う観念が、動物にも存在していると考えること自体に矛盾があるように感じる。にもかかわらず、ディープインパクトの死に安楽死宣言をするなどは、少し擬人化のしすぎであり死体に対する冒涜であるようにすら思える。

 安楽死と言う言葉は、それを使った飼い主なり管理者の身勝手な解釈、もしくは言い訳に過ぎないように思えるのである。それは場合によっては、そう思いたい人の心の弱さの表れなのかもしれない。

 また、もしかしたらそれは、安楽死に名を借りた飼い主のその動物に対する身勝手な殺処分に対する言い訳、後始末を簡略化したい便法に利用されているに過ぎないようにも思えてくる。

 どこまで動物に安楽死があるのか、そこのところが私にはまるで分からないのである。安楽死など嘘ではないかとすら感じているのである。それは、生き残ること、生き続けること、苦しくても死のその時まで生き残るために耐えること、それが「生き物」の宿命、命そのものの宿命だと思っているからである。たとえ、どんなに苦しかろうとも耐えるのが命だと・・・。

 ならば安楽死とは、人間だけが考え付いた例外もしくは特権としての意志であり、特別な観念なのだろうか。だとするなら、人の死は、どんな場合も厄介なものである。


                    2019.8.21        佐々木利夫


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ディープインパクトの死