名古屋で開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展、「表現の不自由展・その後」が、開催後僅か三日で中止された。出品された韓国慰安婦少女像の展示を巡り、メールなどで会場や市庁舎などに、ガソリンやサリンを撒くなどの脅迫状などが、約770通も相次いだからだという。

 その直前に、京都アニメーションの会社がガソリンで放火され、30数人が死亡した事件があったこと、またかつてはオーム真理教の事件でサリンによって多くの人に死者が出たことなどが、企画展の主催者を刺激したからなのだろう。

 この企画展の中止をめぐって、中止やむなしとする意見や表現の自由があるのだからそうした脅迫に屈するのはおかしいとする意見など、世論は分かれているようである。

 危険をどう防止するか、テロには屈しないとする正論とどこで整合させるか、それぞれの意見はそれなりに意味があるとは思った。ただ私のへそ曲がりはその点にではなく、「果たして私たちに、表現の自由というものがそもそもあるのだろうか」と問いかけてきたのである。

 表現の自由は、まさにメディアの金科玉条とするものである。反対意見を持つこと自体もまた表現の自由に属するのではないかと思うのだが、「反対の意見」そのものが言論の自由に対する抑止であるとか弾圧だとみなされてしまう論調そのものが、私はどこか気になっている。

 ところで、メディアがこれ見よがしに表現の自由を主張するけれど、本来そうした表現の自由は国民たる個々人にある、もしくはあるべきでないかと私は感じている。にもかかわらず、私たち個々人が、自らの意志で積極的に表現の自由を放棄している場面が余りにも多いのではないか、そんな気がしたのである。

 それは、そんなに正面切って公表するような、そんな大げさなものではない。家族や隣近所、更には友人や職場関係などなど、極めて身近な関係者相互間における表現についての制限である。

 それはもしかしたら、制限と言うほどの大げさなものではないのかもしれない。場合によっては社交であるとか、交際、人間関係などの範疇に含まれてしまうほどの小さなものなのかもしれない。

 それでも、「自分の思ったことの発言が、有形無形の制限によって抑制される」という意味で、それはやはり表現の自由に対する圧力になっているような気がしているのである。それは、例えば「小さな嘘」とも言えるような現象として漏れ出てくる。

 例えば私が引越ししたとする。新しい住所を身内や職場や友人などに知らせる葉書を出す。私も北海道を中心に転勤する職業だったこともあって、そうした葉書を何度も出したことがあるし。また知人からも同様の葉書を何度も受け取った経験がある。

 そうした葉書の文面に定番のように書かれている定型的な文言がある。「・・・このたび下記住所へ引っ越しました。・・・お近くに来る機会がありましたら、ぜひ一度お立ち寄りください」の一言である。

 そんな葉書を、50枚も100枚も出すのである。もちろん同一の文章を印刷するので、来て欲しい人、来て欲しくない人の区別なく、全員同一の文章である。

 決して葉書の相手の全員に来て欲しいわけではない。にもかかわらず、「来て欲しい」と書くのである。もちろん受け取った側も、差出人が本当にそう思っているのではないことくらい知っている。単なる社交儀礼であると知っているから、その文面を根拠として訪ねてくることなどない。それは、暗黙の了解になっている。

 こんな例でも分かるように、私たちは様々な場面で「本当のことを言わない」世界に生きている。それを社交儀礼と一括してしまってもいいのかもしれない。でもそれは「本当のことを言わない」のではなく、むしろ「本当のことを言えない」ことを、自らに課しているのではないだろうか。

 それを人間関係の潤滑油だと言ってしまうことはたやすい。でも私たちは、そうした「本当のことを言えない環境」に自らを押し込めることを常態としている。そしてそれを、忖度であるとか人間関係のお付き合い、更には「おもてなし」などという言葉にくるんで正当化しようとしている。

 でも、どんな言い方をしようとも、それは「表現の自由」を、自らの力で抑制していることに違いはない。極論になることを承知で言うのだが、日本における自己の表現は、「思ったことを言わない」、「言えない」、「建前と本音」、「波風を立てない」、「我慢こそ美徳」、・・・、そうした風潮を基本とする「表現の自由の欠けている社会構造」を前提として組み立てられているように思える。

 私たちは、表現の自由のない社会を前提に、自らの生活を作り上げているのである。それはもししかしたら、日本人であることの当然の報酬なのかもしれない。そしてそうした人たちが、時に表現の自由を主張するような場面に遭遇することがある時、人は二つの選択肢に向かう。

 一つは匿名行動である。自らを徹底的に秘匿し、あたかも「その主張は私ではない」振りをするのである。例えばガソリンやサリンを撒くといった今回取り上げた展示会への反対メールは、確認したわけではないし、メディアでも報じられていないのだが、私には確信をもって言えるような気がする。きっとその全部が、実名ではなく匿名だろう。

 そしてもう一つはその正当性を、例えば「芸術」であるとか、「憲法で保障された当然の権利」であるみたいな、金科玉条に守られた神像の影に隠れることである。そしてその影に隠れて自らを守る立場である。

 こうした日常での抑制と、それがはじけたときの権利主張の極端さのギャップのあまりにもの大きさに、私には逆に「表現の自由」など日本のどこにも存在しないようにさえ思えてくるのである。


                    2019.8.15        佐々木利夫


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表現の自由