「ガンで死にたい」とか、「ガンは理想的な死への道筋だ」みたいな話を、けっこう聞く機会がある。そうした話は、多くの場合ガン患者自身の口から聞かれ、しかも語るのは多くの場合知識人である。

 もっともそれはそうかもしれない。私の耳にこうした言葉が伝わるのは、テレビでの患者の放映であるとか、もしくは新聞や雑誌や書籍などからの伝聞情報に限られているからである。つまり、メディアでガン患者自身の思いなり哲学を語る機会に恵まれるのは、患者自身がいわゆるメディアに出演可能なインテリに限られるだろうからである。

 こんな言葉をもっともらしく伝えられる機会を持つ患者というのは、まさに「時代の人」というか報道の価値ある人の発言だからである。隣近所の爺さん婆さんが考えるガンへの感触など、ましてや「死にたくない・・・」などのような、メディアがそこに哲学らしさや人生観などを感じとることのできない者の発言など、取り上げられることはないと思えるからである。

 だとするなら、インテリの発言だから「こうした哲学は正しい」とか、「人間としてガン死に対してはそうあるべきだ」とメディアが感じることに、一種の「望ましい人生観」が含まれていると思っていいのだろうか。

 それとも、「ガン死」には、他の死にはない、独特の意味があるのだろうか。そんな風に考えられる要素の一つに、ガンは死への蓋然性が高いことがあげられる。しかもその死が突発的でないことも併せて考えられるだろう。

 もちろん近代医学では、ガンと死は必ずしも結びついているものではない。むしろ「早期発見、早期治療」が国の施策としても叫ばれているように、治るガンもまた多くなっているのが現状である。しかも、医療技術の進歩は、ガン死から死のイメージを外す方向を見せている。

 それでも、ガン宣告、ガン告知と「死の宣告」とは、まだ多くの人にとって同じ意味を持っているように感じられる。治癒することも多く、また直ちに死に結びつくものではなく、長く付き合っていける治療があることもまた、誰もが知っていることでありながら、どこかで死と結びついているのである。

 それは現実としてガンの死亡率は高く、しかも人口の半分がガンにかかることも多くの人の知っている事実だからある。身内や知人や有名人の告白など、多くの人の死にガンが深く関わっていることことを、私たちは現実のこととして知っている。つまり、ガン告知は確実という意味ではないにしても、多くの場合死の宣告と軌を一にしていると理解されているのである。だからこそ人は、がん告知の中に自らの死を覚悟するのである。

 ガンの症状にも様々あるだろうし、またガンに伴う痛みなども様々だろうとは思う。だが、最近はペインクリニックやホスピスケアなど、痛みの緩和の方向にもガン治療は向かっており、その効果も大きいものがある。

 私自身の経験がないので断言できないのであるが、「痛くないガン」が広がってきているということは事実として存在しているようである。つまりガンは、ゆっくりであるかもしれないが、確実に痛まない死へと向かっている、そんな風に感じられるのである。

 他方ガン告知は、患者本人の意志にもよるのだろうが普及していっている。これは様々な治療形態を選択しなければならない現代医療の世界では当然のことだと思う。告知なくして治療方針の選択など難しいからである。

 そうしたとき、ガン告知を受けた患者としては、「痛くない、明日明後日という短い期間に死が迫っているわけではない、でもいずれ数ヶ月程度の間に確実に死ぬ」という状況が告知されたことと同じことになる。つまり、「いずれゆっくりと死ぬ」ことが告知されたのと同じ意味を持つのである。

 「痛くない」と「苦しくない」とはどの程度意味が違うのか、私には分からない。ただそれをもし混同してしまうことを許してもらえるなら、その迎える死は必ずしも「ポックリ」ではないにしても、「数ヶ月先までの痛くない死」を意味する。

 その期間が、健常者と同じ状態にあるとは思わない。入院にしろ通院にしろ、はたまた抗がん剤や放射線治療にしろ、何らかの苦痛なり忍耐を伴うだろうことは理解できる。

 それでも、「死をゆっくりと考えることができる」そんな機会を、ガン告知は与えてくれるのである。私には、それこそが「ガンで死にたい」との思いの根っこにあるような気がしている。どこまでそれが叶えられるかは患者により様々だとは思う。それでもビフテキも食える、家族とのゆっくりとした別れの時間を過ごすこともできる、望むなら親しい友人や恋人と別離の語らいをすることもできるし、酒だって飲めるかもしれない。

 そんな状況への思いが、「ガン死」は他の死にはない特別な時間を、宣告された私に与えてくれるとの特別な思いにつながっているのではないだろうか。そしてそれが「望ましい死」であるとの感触につながっているように感じる。

 繰り返すけれど、「死を落ち着いてゆっくりと考えることができる」、そうした思いが「ガン死」を理想化させている大きな要因になっているように思う。
 でも・・・、本当にそうなのだろうか・・・。私はふとそんなことを、思ってしまったのである。


             中途になってしまいました。来週の「ガンで死にたい 2」へ続けます。


                               2019.6.5        佐々木利夫


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ガンで死にたい 1