こうしてへそ曲がりエッセイを書いていると、自分なりの言葉遣いというか文章のくせなどが、どことなく分かってくる。それが正しい日本語だと言う保証は何も無いのだが、自分なりの使い方に慣れてくるとそうした使い方か当たり前に見えてくる。

 だから私が「これこれはこうだと思う」と言ったところで、それが正しいとは必ずしも言えない。にもかかわらず、例えばこれまで何度も書いたように「ら抜き」表現だとか、犬猫などのペットに餌を「あげる」と表現するなど、気になる日本語が増えてきている。

 それは「言葉は常に変化する」ことの表れなのかもしれない。例えば毎年の流行語大賞なども、私にはチンプンカンプンな言葉が多く登場するけれど、それが新語か造語かはともかく変化する日本語の一つの例だろうと思う。因みに今年の流行語大賞のトップは、「0NE TEME」(ワンチーム、今年世界大会でで活躍し人気急上昇した日本のラグビーチームが、自らのチームをそう呼んだらしい)と言う単語が選ばれた。

 そのほかにも若者言葉であるとか、外来語の氾濫なども変化する日本語の中に含めてもいいだろう。だからそうした変化を、一概に「おかしい」と言い募ることは間違いだと思う。そう思う反面、例えば日本語を学んでいる外国人の会話に、逆に「正しい日本語」を感じてしまう現実もある。

 そんなこんなの戸惑いの中で、この「はず」であるとか、「べき」と言う使い方が最近気になりだしてきている。それは日本語として必ずしも間違った使い方というわけではないかもしれない。

 ただ、「はず」と「べき」とを結びつけることで、いかにもその主張が正当化されるかのような使い方になっていることが気になるのである。

 「はず」とは、二つの事柄の因果関係を証拠なしに結び付けてしまうことである。ただその背景は、「少なくとも私は・・・」という個人的な思い込みが根拠になっている。「AはBのはずである」との言い方は、その中に「確たる証拠はないけれど私はそう思うし、皆さんもそう思うと思います」との暗黙の了解が求められている。

 そうは言っても、「はず」が「はず」の範囲内に止まっている限り、それはそれで許されると思う。

 だが、それが「べき」と結びついてしまうと、とたんに「はず」は「本人の思い込み」の範囲を超え、他者まで巻き込んでしまうことになる。つまり「はず」は持つ意味の範囲を超えてA=Bになってしまい、「AはBなのだから、CはDであるべきだ」になってしまうのである。

 そして「べき」は、他人にある種の行動を強要する意図を持つ言葉である。「べき」とされた事柄を、言われた側が実際に実行するかどうかは疑問ではあるけれど、「べき」は他者に「D」という行動を強いる効果を持っているように思う。

 「はず」が、単に「私はそう思う」程度の範囲なら、まだいいと思う。それがいつの間にか「AはDである」にまで拡大されてしまうとなると、どうにも納得できなくなってくる。

 それは単なる使い方の問題であって、日本語の誤用とか正しい日本語に反しているというのとは違うのかもしれない。変化する日本語の範疇に入らない話題なのかもしれない。

 そうした使い方は、むしろ日本語としては正しいのかなとも思うことがある。「殺人は正しい」とか、「平和は間違いだ」のような、その言葉の持つ哲学と言うか意味なり意志の問題であって、少なくも「日本語」の問題として捉えるのは違っているかもしれない。

 それでもなお私は、「はず」と「べき」を結びつける使い方は、日本語として許してはいけないように思っているのである。


                    2019.12.5        佐々木利夫


             トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 

「はず」と「べき」と