歳をとると言うことは、考え方が丸くなり穏やかになっていく過程なのだと思っていた。しかしこの頃は、逆に色んなことにとんがっていく過程なのかもしれないと思うことがある。このエッセイも新聞に投稿されたこんな一言に対する、私の曲がったへその記録である。

 男性の日傘利用を広めるために作った、「男も日傘をさそう会」の会長と称する男性からの投稿があった(2019.7.8、朝日新聞)。

 投稿者は「大阪市で創業した老舗傘店の4代目」だというから、そんな会を作って傘の宣伝をしたいという思いをとやかく言いたいわけではない。宣伝し、傘の売り上げを少しでも増加させたいと考えることは、商人として当然の思いであり、行動だと思うからである。

 私自身は雨以外に傘を差すことはない。出勤に際して妻から時々傘の心配をされるけれど、雪でも強い日差しでも傘を持ち歩くことはない。それでも「男の日傘」が、近頃少しずつ増えてきていることは実感している。だからと言って、「日傘など男の沽券にかかわるとまで思って持ち歩かないわけではない。単に必要ないと感じているだけだからである。

 それでもその投稿文の中にあった、「・・・その頃、肌が弱かったのでゴルフ用の日傘を使い始めた。帽子と比べてカパーできる範囲が広く、髪も崩れない。『差すことは善なり』と分かったが・・・」の一言が気になった。

 そこにあった「差すことは善なり」の言葉が、余りにも独善的に思えたからである。彼が善だと思ったであろう背景には、二つの場合が考えられる。一つは「彼個人にとって善である」の意味であり、もう一つは「普遍的な意味で善である」の意味である。つまり、男の日傘が投稿者である「私にとっての善」なのか、それとも「多くの男性にとっての善」なのかの違いである。だから、彼がどちらの意味で使っているのかによってその言葉の評価が分かれることだろう。

 彼が個人的に日傘を差すことが善だと感じたのなら、それはそれでいいと思う。特に投稿者は「自身の皮膚が弱い」と書いているのだから、強い日差しから皮膚を守るために日傘が有効であったと感じ、それを善と感じたのなら、それを他者がとやかく批判することではない。

 しかし彼はこの投稿を、「男も日傘を差そう」と傘の宣伝販売を目的として書いているのである。この投稿を通じて、少しでも日傘の販売が促進されるように願って書いているのである。

 そう考えるとこの「善なり」という意味は、「私にとって善」の範囲を超えて、「他者にも善である」という意味にまで拡大されて使われているように思えてならない。そしてそれは、「私にとっての善は、人間全体にとっての善である」ことを指しているようにさえ思えるのである。

 つまり彼は、「日傘を差すことは、男全体にとって善なのだ」と、検証なしに主張していると言うことである。「私の皮膚に効果があった」ことを、一般人にまで、しかもそれを「善」として拡大しようとしているのである。

 こんな些細なことに善悪の定義にまで拡大してしまうのは、考えすぎかもしれない。それでも日傘に善悪を重ねてしまう彼の論調には、どこか大げさ過ぎてついていけないものを感じたのである。

 私に必ずしも善の意味が理解できているわけではない。「ちょっぴり楽しいこと」だって善の中に含まれるのかもしれないし、「そこそこ満足する」こともまた、善だと言われればそれを否定することは難しい。

 だから私自身の抱いている善への意識は、もしかしたら善の持つ意味を余りにも過大に評価しようとしているのかもしれない。善とはそんなに大げさなものではなく、ささやかで小さなものだって、それを本人が善だと感じとれるものなら、それを善として理解していいのかもしれない。

 それでも私が抱いている善とは、ニイチェの言う「善悪の彼岸」の善であり、神との対話が出来るまでに膨らんだ壮大な思いのように感じている善である。それは同時に絶対的正義としての善であり、宗教的な絶対者につながる善なのである。

 だから、彼の言う「男が日傘を差すことは善なり」の意味が、人生にとって傘が無比の善であること、絶対的正義としての善であることを、他者に押し付けようとする身勝手な考えだとしか思えないのである。そこまでの重さを持つ用語として、私は善という言葉を彼にもきちんと使って欲しかったのである。


                    2019.7.24        佐々木利夫


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男の日傘と善