福島にある東京電力原子力発電所が、東北大震災(2011.3.11.)とその地震が引き起こした津波が原因で爆発事故を起こした。そして、近隣の多くの市町村が震災と放射能によって居住できなくなった。それは今でも続いている。意味や規模は違うだろうが、チェルノブイリと同じような現象が我が国でも起きたのである。事故から今年で8年を過ぎた。

 避難指示された地域も、少しずつその解除がなされるようになってきた。除染作業も影響しているだろうが、時間と共に放射能が減少していくことも大きな要因になっているのだろう。

 だが、避難指示が解除される一方で、その地へ戻ろうとする人は必ずしも多くない。どうしてなのか。その原因の一端を、次の新聞投書が示している。

 「帰還の可否 『住民判断で』は酷」(2019.11.7、朝日新聞、福島県 会社役員男性 60歳)

 「私の・・・住まいの隣町、福島県富岡町では、・・・除染が進んでいる。・・・被災地では避難指示解除が進んでいる。だが私たち住民には、解除を喜ぶ声がある一方、本当に解除して良いのか、と心配する声もある。(法律では)事故による被曝が年間20ミリシーベルト以下になれば、避難指示は解除できる定めだ。一方で解除しても国は『帰って住め』とは言わない。帰る帰らないの判断は全て、住民自らが行え、ということだ。しかし、放射能の知識が乏しい住民に、何を根拠に住めるか住めないかの判断をしろというのだろうか。

 彼の言うとおりである。「政府としては安全宣言をしました。そこへ住むか住まないかはあなた自身の自由な意思で決めてください」は、まさに正論だと思う。

 だがこうした政府の見解には、二つの大きな疑問がある。一つは「安全に対する信頼」であり、そしてもう一つは「生活ができるか」である。

 投書者が感じている疑問の背景には、放射能に対する安全宣言そのものに対する信頼の揺らぎがある。政府はこのことに少しも気付いていない。安全といえとも程度の問題であることを否定はしない。絶対安全と言う環境など、望むべくもないだろうからである。

 だが、「常識的な安全」という一種の許容範囲は、多くの人が持っている。その「常識的な安全」に対する許容範囲の説得が、政府の説明からは被災者に理解できる形で示されていないのである。

 でも、ことは五感に感じることのできない放射能である。安全であることを、自身で体感することなどできる性質のものではない。科学的な根拠に基づく、何らかの基準が必要になるだろう。そして、それが政府の示す「安全基準値」になるのだろう。

 その示された基準値が、国民に信頼されていないということである。そうした不信の気持ちは、居住制限された地域に住んでいない私にも良く分かる。放射能値に対する、安全基準値なのだから、それは恐らく「シーベルト」で示される値になるだろう。

 そうしたとぎ、一つだけ信頼できる数値がある。制限地域外の一般居住地での放射能値まで下がったとする宣言である。世界のどんな国にも、またどんな地域にも、自然界に存する放射能がある。

 それは、私たちが生物として存在している進化の過程の最初から存在していた、地球そのものが持つ放射能値である。私たちだけでなく他の生物も同様であろうが、人類はそうした自然放射能と共に生きてきたからである。それを否定し放射能値ゼロ宣言を求めることは自己矛盾になるだろう。

 でも、そうした自然放射能値を超えるような数値が示されたとき、その安全性は歴史的な過程の中で判断されたものでなければならない。ましてや世代間遺伝にまで影響が及ぶとされる放射能の検証である。どこまで安全かは、まさに数百年、数世代にわたる検証結果が示されてはじめて、納得できるものになるのではないだろうか。

 にもかかわらず、放射能が人類に影響があるかないかの問題が生じたのは、放射能が人工的に濃縮され、あるいは人工的に生成された、ここ数十年のことである。不正確を承知で言うのだが、キュリー夫人の研究が嚆矢、そして原爆実験と日本への投下、それが初めてなのではないのだろうか。たとえ人類だけに限定したとしても、どうしてそんな短期間でその安全性が確かめられるのだろうか。

 さて第二の疑問点は「生活できるか」である。仮に生命の存続と言う意味では、安全が証明されたとしても、ある人がその地でどうやって生活していけるか、の問題である。一般的に生活とは、その地における家族や地域との安定した生活である。生活とは、自営にしろサラリーマンにしろ、その地で安心して経済活動を営み、将来にわたってきちんと生活できることを意味する。

 仕事はない、買い物をするためのスーパーマーケットも近くにはない、病院も学校も遠いなどなど、そんな状態で、どうして「安定した生活」が可能だろうか。少なくとも「避難前の状態」にまで生活環境が戻らない限り、安定した生活が望めないことくらい明らかである。

 確かに、災害前の状態に戻るには、人口が元の状態へと戻る必要がある。一方で、人口が元に戻るには、戻ろうと思う人が増えないことには実現しない、これも事実である。これらは互いに二律背反みたいな堂々巡りになる。でも、その二律背反を、当事者自身の「自己責任」のみに解決を委ねることは、無理なのではないだろうか。

 放射能安全値に対する混乱、地域的に生活基盤が安定していない混乱、そうした混乱が不安を招いている現状の中で、自己責任を求められた私たちは、一体どうしたらいいのだろうか。「悩むだけ・・・」、の中に戸惑うしか方法はないのではないだろうか。そんな中に解決策まで国民に求めることは、国として正しい行動と言えるのだろうか。


                    2019.11.12        佐々木利夫


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