ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王が、今月24日に来日すると言う。どこをどう回るのか分からないけれど、被爆地である広島・長崎は訪れるそうだ。

 そこでこの来日に関して、新聞社が特集記事を組んでいる。その一つに「ナガサキからの発信 被爆地で訴える核兵器の非倫理性」と題した見出しの記事があり、最近読んだ(2019.11.18 朝日)。

 その見出しにも記事の内容にも、特に異論はない。「世界が望む核兵器の廃絶」とする思いは、まさに正論だと思うからである。

 でも、でもである。私はこの見出しに掲げられた「核兵器の非倫理性」の一言に、どこか引っかかってしまったのである。非倫理性と呼ぶことに納得しつつ、その非倫理性を誰がどのように判断するのかが、どうにも気になってしまったのである。

 核兵器の非倫理は世界中が理屈抜きに認めている、とする考え方があるかも知れない。核兵器の非倫理性は、「証明を要しない客観的な事実である」とする考えも、観念的に理解できないではない。それでも、果たしてそこまで割り切ってしまっていいのか、そんな気持ちがどうしても私には捨てきれないのである。

 それは、倫理の客観的な位置づけに対する疑問である。倫理に類似した言葉はいくつもあるだろう。例えば常識、たとえば社会通念、例えば正義や道徳などなど、それぞれが完全に一致しているかは疑問ではあるけれど、かなりの部分で重複していることだろう。

 更に付け加えるなら、倫理には人間性であるとか規則、法則、法律なども含まれるかも知れない。父母を敬えとか人を殺す勿れと宣言したモーゼの十戒などだって、いやいや聖書そのものやイスラム経典や仏教典だって倫理と呼べるのかも知れない。

 でもそれらは微妙な違いを有している。一言で「これが倫理だ」と呼べるような、そんな基準があるのだろうか。核兵器の存在や開発や使用が倫理に反しているとするなら、その判定の根拠を私たちはどこに求めたらいいのだろうか。

 地球温暖化や公害問題、刑法違反や数多の環境汚染の規制に反した行為などは、倫理とは無関係なレベルにあると理解していいのだろうか。校則や社則、遠足や運動会などの決まりごとなどは、倫理とは無関係なのだろうか。

 最近、倫理性が叫ばれる話題に、人体への操作や遺伝子操作などがある。臓器移植に関して行われる脳死判定にも、倫理が顔を出した。そのほか、デザイナーベーヒーであるとか、遺伝病の疑いのある妊娠の中絶、更には不妊治療そのものにもときどきこの倫理と言う言葉が飛び出していくる。

 要約すると、「○○は神の領域だと言うフレーズに代表されるある種の行為一般」、ということにでもなるだろうか。だとするならそれは、「人為の及ばない領域」への介入や、「人が介入してはいけない領域」への進出を禁止しようとするものになる。

 ただ、ある行為が「人為の及ばない」領域であるうちは、それはそれでよかった。そこはそもそも「人為の及ばない領域」なのだから、禁止しようが禁止しまいが人が踏み込むことなど考えられなかったからである。

 ところが、それがいつの間にか「人為の及ぶ範囲」が広がってきて、そこへの介入が少しずつ可能になってきた。「人の手の及ばない」と勝手に決めていた領域が、徐々に侵される時代を迎えることになったのである。

 「神の領域」とは、そもそも特別な意味を持っていたわけではない。単に「人為の及ばない領域」であることを、私たちが勝手に思い込んでいただけのことだったからである。

 「神様に任せる」、「神様のみが知るところ」、「運を天に任せる」、私たちはある事柄をそう呼び、そこは私たちには手をつけることが不可能な領域なのだと、安心し決め込んでいたのである。

 だとするなら、「神の領域」とは単に人間の踏み込むことが不可能な領域という意味だけのことであって、禁忌領域でも禁止領域でもなかったことになる。そこは地球から数億光年も離れた領域であり、「どうぞご勝手に」と言われても、どうにもならない領域だっただけのことになる。

 「神の領域」と「倫理の世界」とがどのように結びつくのか、必ずしも私に分かっているわけではない。でも私には、「倫理」の枠組みがどこかで確立されているようには思えない。むしろ「倫理」を唱える人たちの心の中には、「それは神様の決めること」みたいな責任逃れがあるだけにしか思えない。

 だとしても前述したように、私は「神が倫理性を定めるものではない」と思っている。神はどんな場合も無責任である。いやいやそれよりも前に、私たちは「神の声」を聞くことはできず、「神の真意」を確かめることもできはしない。しかもしかも、神は多様であり多種である。

 キリスト教の神やフランシスコ法王の言葉だけが神の声なのではない。イスラム教にも仏教にもインディアンにもアイヌにも神は存在し、隣のおばさんは裏山の湧き水に神性を感じている。神は多くの場合互いに対立し、争い、時に血を流す。教義も儀式も、そして信じる道も正義もそれぞれに異なっている。

 つまり神とて単一ではない。単一でない神に委ねる倫理などは、倫理もまた「多様」であることを認めることになる。「複数の考え方の存する倫理」、それを果たして「倫理」と呼んでいいのだろうか。そしてそれに「非」の文字を冠して、「非倫理」と呼ぶことそのものが無理なのではないのだろうか。

 人には人それぞれに固有の倫理がある、仮にそれを認めるとするなら、「非倫理」とはそもそも何者なのだろうか。「倫理」は、そして「非倫理」は、どこに根拠を求めればいいのだろうか。それとも、それとも、倫理もまた多数決によるものなのだうか。


                    2019.11.22        佐々木利夫


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非倫理性