私がこれから書こうとしていることは、恐らく時代の風潮に合わないとして批判されるのではないかと思う。そしてそれは、単に合わないのみならずいじめ被害者の気持ちをまるで理解していない、いじめで自殺した子供たちの気持ちを逆なでするような偏見だとすら言われるかもしれない。

 そうした批判は承知の上だが、だからと言って私はいじめを承認したいと思っているわけではない。むしろ「あってはならないこと」であり、いじめ加害者の行為が時として犯罪になる場合すらあるとも思っている。

 にもかかわらず、そうした批判を承知の上で書くのはいかにも矛盾である。そして私自身も矛盾であると理解している。それでもなお、心のどこかで現在のいじめと自殺をめぐる風潮について、へそ曲がりのアンテナに触れたことどもを書きたいと思ったのである。

 それは、言ってしまえば「今の子供は打たれ弱くなっているのではないか」との思いである。もっと言うなら「現代人はやわに過ぎるのではないか」との思いから抜けられないということである。

 それはもしかしたら、現代の多くのメディアが同じ事件を様々な切り口で繰り返し報道することによる錯覚なのかもしれない。50年前、100年前なら、伝わってこなかった遠い地方や田舎や小さな集落での出来事が、現代では単に新聞テレビだけでなく、インターネットやSNSなどを通じてあっと言う間に世界に拡散してしまう現実が背景にあり、だから私たちがそれに幻惑されているからなのかもしれないからである。

 つまり、それだけ一つのニュースに我々が繰り返し接触する機会が、とてつもなく増加しているからなのかもしれないという意味である。だから、いじめは昔から同じように存在していたにもかかわらず、私たちがそうした事実を知る機会が少なかっただけなのかも知れないということである。つまり増加したのはいじめの事実や実数ではなく、単なる情報量の増加、接触する機会の増加によるものなのではないかということである。

 逆に言うと、いじめは増加していないにもかかわらず、メデイァの発達があたかも分母が増加したような錯覚を我々に与えているだけなのかも知れないという意味である。それはまた、いじめの内容についても同じである。メディアの発達は「いじめの内容」についても、詳細に発信するようになってきているからである。

 だからそんな検証もなしに、見かけだけで「今の若者はやわになっている」などと判断してしまうのは、もしかしたら独断であり、偏見のそしりを免れないかもしれない。

 いじめと自殺がまるで無関係とは思わない。それでも「耐えられるいじめ」、「我慢できるいじめ」、「無視できるいじめ」、「軽蔑するいじめ」、「放置できるいじめ」などなど、私たちはもともといじめに耐性を持っていたはずである。

 その耐性を私たちは、社会に対する順応とか集団との折り合いとか、更には協調、妥協、折衷、従順、反抗、我慢、逃避、無視などと呼び、様々な形で吸収し対処してきたと思うのである。昔だって「耐えられないと思えるようないじめ」があったのではないかとは思う。そうしたいじめに対して、私たちが常に免疫を持っていたとは思わない。思わないけれど、どこかで「いじめをやり過ごす手段」を身に着けてきたのではないだろうか。

 それが「いじめに対する強さ」であるとか、「いじめに対する抵抗力」を持っていたからだとは必ずしも思わない。また、いじめと自殺の関係についても、どれほど過去に遡って統計があるのかも私はまるで知らないし、また、調べる手段も持っていない。

 だから、昔も現在と同じようにいじめによる自殺はあったのだと言われたら、それに反論する術を私は少しも持っていない。そんな状態のままこんなことを言うのは、まさにへそ曲がりの独断であり偏見だと言われてしまえはそれまでのことである。

 もちろんいじめによる加害と被害は相対的なものである。加害の強さの増加や減少、被害の受けとめ方の強弱、そうしたバランスの上に、「いじめの程度」が測定されるのだろうとは思う。だから私の言う、被害の受けとめ方だけが過大になっている、つまり被害者が一方的に弱くなっていると判定することは、公平な見方になっていないかもしれない。加害だけが一方的に加重になっている場合だってあるだろうからである。

 また、いじめは表面的には個人対個人の問題ではあるけれど、時に個人対集団、集団対集団という問題も考えなければならない場合もあるだろう。そして時にその集団には、加害側への抑止、被害側の支援という社会的な問題も含めて考えていかなければならないのかもしれない。だから、「被害者が弱くなった」という部分だけをとらえた言説は、一方的に過ぎ誤りだろうとは思う。

 そうした意味では私の意見は偏見である。でもそれを承知の上で、なおかつ私は、被害者の耐性が弱くなってきているような気がしてならない。被害の程度を超えて加害が強くなっているのかもしれないけれど、それに対抗して被害に対する耐性が伴っていっていないことにも、その背景にあるのではないかと思えるのである。

 単に被害者に向かって、「強くなれ」、「免疫を持て」というだけでは解決しないのかもしれない。でもSNSで発信された言葉に自殺までしてしまう風潮は、どこかおかしい。私には余りにも耐性のない被害者の態度が、むしろいじめを加速させているのではないかとすら思っているのである。そのためには、「やられたらやり返せ」、「無視してあっけらかんとしていろ」、つまりは「強くなれ」と言いたいのである。

 しかも自殺は最悪の選択肢である。自殺によってその被害者はいなくなるのだから、そのいじめはなくなるかもしれない。でも、その「いじめのなくなった状態」を自分で確認することはできないのである。

 私には最近の自殺が、単なる「いじめからの回避」ではなく、どちらかというと「自殺を利用した報復手段」のように思えてならない。

 確かに自殺することによって、各地の教育委員会や警察などがその原因を究明し、ときにいじめを認定して加害者を糾弾する場合があるかもしれない。でも仮にそうなったとしても、その事実を自殺した本人は知ることができないのである。だとするなら、自殺は他者の手を借りた、しかも自らはチェックすることの不可能な、極めて卑怯な自主性のない復讐手段である。結果を知ることのできない復讐など、何の意味もない。

 別に自力で東大や京大を目指して総理大臣になることやノーベル賞を狙えと示唆するつもりはない。場合によっては暴力団に入ったり盗賊グループを結成することだっていいし、矛盾するかもしれないけれど、いじめられる側からいじめる側に回る選択肢だってあるだろう。

 強くなれ、ということは、生き延びよと同義である。どんな方法でもいい、自らを抹殺することなくひたすらに生き延びること、格好良かろうが悪かろうが、ただ明日のために飯を食うことだけに力を傾けること、そんな自分になれるように思い込むこと、それが「強くなる」ことだと私は思っているのである。

 それでも「いじめられた事実は消えない」と言うかもしれない。でも違うのである。いじめられた事実は、強くなることで霧散してゆくのである。いじめられた事実はやがて時間の中に消えていくのである。そして耐性と強さだけが残るのである。

 考えてもみるがいい。自殺は決定的かつ確定的な「負け」である。そして仮に犯人探しによっていじめた側が処分されたとしても、いじめた側はそれを超えて生き続けるのである。自殺は結局、何の報復にもなり得なかったのである。


                               2019.4.3        佐々木利夫


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いじめと自殺