NHKの番組、「ブループラネット」の第二回は、深海だった。トワイライトゾーンと言われる、太陽光が届くか届かないほどの深海に住む生物を映像で追いかける番組だった。

 そんな深海に住む生物に、ナレーターのアナウンサーは「得体のしれない生き物」と表現していた。確かにそうである。私たちの想像もつかないような生物の姿が、次々とそこには映し出された。その姿はまさに異様であり、同時に興味の尽きることのない映像であった。

 それを見ながら、私はとんでもないことを考えていたのである。映されている生物は、確かに異様な姿をしている。それでもそれは「深海」という特別な環境に順応するために進化した、一つの適者生存の結果を示す姿ではないかと思ったからである。

 たとえその魚に見える生物に、眼がなかったとしても、それは「見る」必要がないために、「眼が退化した」だけのことなのではないか。異様に見えるのは私たちが「眼のある魚」しか見る機会がなかっただけのことにしか過ぎないのではないか。そしてそれはもしかしたら深海では、眼のない生物のほうが当たり前の進化なのかも知れないと言うことである。

 眼のない生物は深海に限らず、光の届かない洞窟の奥深くに住む生物にも見つかっている。また仮にその眼が、我々の感じる以上に巨大であったところで、それは僅かな光を多く集めることで獲物を獲得するための必然の進化なのかもしれず、「見慣れていない」ことがそのまま異様と言うことにはならないだろう。

 そしてその時ふと思ったのである。「得体の知れない生き物」と言うのは、もしかしたら「人類」なのではないだろうか・・・と。考えるまでもなく、人類こそは他の生物とまるで異なる独特の進化を遂げた生物のように思えたからである。

 その進化は、形態だけに限るものではない。もちろん外形的には、二足歩行などは他の生物種にはほとんど見られない進化だし、牙や爪や外皮など身を守ったり攻撃する手段などをまるで持たない種として進化したことも特別である。

 それにも増して、知能と言う分野での人類の発達は異様である。だからこそそうした発達を称して、人類を生物種の最高位に置くような考え方が出てきたのかもしれない。それでも僅か数万年、数十万年という人類発祥の歴史の中で、人類は地球を埋め尽くすまでに増殖した。

 そうした発展というか発達が異質であるからと言って、それが必ずしも悪だとは言えないだろう。人間の築いてきた言語や科学や芸術などが、他の生物種には存在しない特別な発達だったとしても、それだけで「特殊」=「得体の知れない」と定義づけることはできないと思う。

 それでもその異質さが、自らの住む環境を破壊し自らの種の改造するというレベルにまで及んでしまうのは、どこか間違っているいるような気がしてならない。人類はまさにそうしたレベルにまで達している。

 具体的な根拠を示せないのだが、今の時代は科学も芸術も人が人である領域を超えようとしている、いや既にその領域を超えてしまっていると言っていいのかもしれない。

 外形的に見る限り、ほとんどの生物と人類は似ている。単にゴリラやチンパンジーなどの霊長類と似ているのみならず、犬猫や昆虫などとも基本的には似ているように思う。もちろん「似ている」と言ったところで、それは程度の問題だとは思う。親子にだって「似ている」、「似ていない」などの指摘をすることができるだろうからである。

 それでも、眼で光を感じ、声を放ち耳で音を感じる、そして胴体があって頭や手足を持っているなどの形態は、多くの生物に共通する外形である。心臓や肺や脳など、内蔵も人と動物は極めて類似している。

 進化の過程を、私は必ずしも理解できているわけではない。しかし、魚類から両生類へと進化し、さらに爬虫類や哺乳類へと進化していった過程は、素人の私にもとてもよく理解できる系譜のような気がする。

 更に言うなら、少なくとも哺乳類としての人類は、他の哺乳類とほぼ類似の形態を持った仲間同士であることくらいは、すぐにも理解できると言うことである。

 にもかかわらず、人類だけがその中でも得体の知れない独特の進化を遂げたことはすぐに分かってくる。二足歩行になったことで前足が手に進化し、それで人間は道具を使うようになったのかもしれない。そのことが頭脳の発達を促し、人類を異質にした遠因になっているのかもしれない。

 だがそうした進化は、他の生物の進化とは比較にならないほどの異様さを持っている。生物の基本は生き残ることである。そして自らの種を継続させることである。このことはあらゆる生物にも共通する、生命の基本である。そして人間もそうした例に漏れることはない。

 そんな中で人間は自己を破壊し、他者を無差別に破壊するまでの術を発達させた。他の生物のほとんどが、せいぜい食べるため、自己を守るために「かみ殺す」範囲でしか他者を殺す手段を持たないにもかかわらず、人類だけが大量破壊兵器を持った。それだけを捉えても、人類の異様さは明らかである。

 一発の原爆が数万、数十万の無関係な人類を破壊し、生物兵器は無差別に大量な他者に死を与えることを可能にした。こんなことのできる生物は、これまでの地球の歴史を含めても人類だけが持つ特別な能力である。それを考えただけでも、人類がいかに「得体の知れない生き物」であるかが分かる。

 確かに人類は、哲学、宗教、言語、文字などなど、他の生物にはない能力を持っている。そして生物の頂点にいると自負している。でも本当にそうなのだろうか。本当は人類は、単なる一過性の「得たいの知れない生き物」として、たまさか地球上に数万年、数十万年の生存機会を与えられただけの、臨時の種なのではないだろうか。

 人類は「この世の春」とばかり、今の地球で生存を謳歌し、隈なく席巻している。地球における生命の歴史は、90数パーセントの種が絶滅した歴史でもあると聞いたことがある。ならば、人類と言う名の種も、絶滅危惧種として破滅の淵に立っているとは言えないだろうか。人類は進化し過ぎたように思う。宇宙にとっても、そして地球にとっても、人類は既に余計な因子になってしまっているのではないか、そんな気がしてならない。人は知恵あることを喜んでばかりはいられないのではないだろうか。


                               2019.6.22        佐々木利夫


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得体の知れない生き物