つい先日、NHKのEテレで「こころの時代・『いのちの時代』の到来」を見た。特に番組に興味があったわけではなく、他に興味を引くようなチャンネルがなかっただけにしか過ぎない。宗教家らしい高齢者と同じような年代の僧侶との会話であった。ともに著名人なのだろうけれど、残念ながら私にその人たちに対する知識がまるでなかったので具体的に紹介することはできない。

 その中で僧侶がこんなことを話していた。

 寺院の敷地にある岩に、数十センチの松の木が生えているのを見つけた。もっと小さな若芽のときにそれを見つけた私は、弟子(?)たちに、その芽に手間をかけるな、水もやるな、自然のままに放置しておけ、と命じた。どこからか運ばれた種が岩の上に落ち、埃にまみれ、雨や雪にさらされて、辛抱強く自らの命を守っていたのだろう。こうした僅かの埃や雨などを待ち、埃がやがて土の代わりになり、雨水を得て松の種は芽を出したのだろう。命はどこでも生きられるのです。

 僧侶は、あたかも命そのものを悟ったかのように言い放つ。それを聞いて私は、それは嘘だと思ったのである。松の木が生延びられたのは、恐らく万に一つの僥倖だったと思えたからである。松の木に限らず、生物の基本的使命は「種の保存」である。そしてそれだけである。

 命とは生延びることを指すのではなく、生延びることで種として存続することを意味しているのである。そしてその種の存続とは、膨大な命の無駄の中から得られる偶然の結果によるものなのである。

 松の繁殖方法を、私は必ずしも知っているわけではない。それでも「雄細胞」があって、それに花粉が接触することで受精が行われ、結果として「種(タネ)」ができる。そしてその種が発芽し、生育して成木となることで種をつないでいくことぐらいは知っている。この岩に生えた松の状態を私は知らないが、少なくともこうしてできた種の発芽の結果であることだけは明らかである。

 一つの松の木から、とれくらいの雄細胞が発生するのか、花粉の数はどのくらいになるのか、そしてその結果どの程度の数の種ができるのか、私は知らない。知らないけれど、恐らく細胞や花粉のレベルでは数億、種(タネ)のレベルだと数千にも及ぶのではないだろうか。

 そしてその種から発芽して成木にまで成長するのは極めて限られた確率になるのではないだけうか。こうした経過を考えてみると、細胞レベルから考えると、ほとんど無限とも言うべき無駄がそこにあるといえるのではないだろうか。生き残る細胞がゼロだとは言わない。現に森林として生育しているのだから、確率ゼロではないことは確かである。

 それでも一つの雄細胞、一つの花粉で考えるなら、生延びる確率はゼロとも思えるほど稀少である。すべての雄細胞、すべての花粉は、受粉して種を作り松の木という種を残すという能力を与えられている。それにもかかわらず、そのほとんどは与えられた役目を果たすことなく死滅していくのである。

 種を残すことだけをとらえるなら、雄細胞としてそして花粉として、つまり一つの命として種の保存という役割を与えられているにもかかわらず、その役目を果たすことなく生殖細胞のほとんどが死滅していくのである。そうした経過は、種(タネ)となることができたものも同様である。種のほとんどは発芽しないまま、もしくは発芽しても松の木になれないまま死滅していくのである。

 岩に生えた松の木は、稀有とも言えるような確率の結果として生延びた例外なのである。数億、数兆にも及ぶ命の中から、たった一つの例外として生延びることのできた、まさに奇跡の命なのである。例外とも言えるゼロからの生き残りなのである。

 地球の歴史を見てみると、生物そのものが絶滅をくり返している。その割合をどこかで引用して書いた記憶があるけれど、具体的数値は思い出せない。それでも90数パーセントに及ぶ種が、絶滅、つまり死滅していくのである。松の木だって例外ではないだろう。

 地上に発生した種、それを命と呼べるなら、地球の生命は絶滅の中から生延びてきた数少ない例外なのである。そして今生延びている命とても、それは「生延びた」のではなく、単に絶滅への過渡期にあるだけなのかもしれないのである。

 僧侶は一つ一つの命が、あたかも最初から「意味ある命」として存在しているかのように言う。ところが実際は、多くの命は無駄に死滅していくのである。残された命は、そうした無駄な死滅とは無関係な中から確率として存在しているのである。

 私が生まれたのは、数億の精子と数百か数千の卵子との気の遠くなるような死滅の中から出来上がった例外なのである。私だけか命なのではない。死滅した数億の精子もまた命だったと思うのである。

 「命は尊い」と人は言う。そのことを否定しようとは思わない。しかし、死滅していく数億、数十億、更に言うなら無限ともいえる命の無駄の果てに、私たち、そして地上の生物は存在しているのである。そして更に言うなら、無駄に死滅した様々も確実に命だったのである。


                               2019.3.29        佐々木利夫


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