インドの哲学書というか聖典「ヴェーダ」は「リグ・ヴェーダ」、「サーマ・ヴェーダ」、「ヤジュル・ヴェーダ」、「アタルヴァ・ヴェーダ」の四つから構成されているのだそうである。そしてその「リグ・ヴェーダ」の中の「ナーサディーヤ賛歌」の一節にこんな言葉があると書いていた本を読んだ(前田專學著、インド哲学へのいざない、NHK出版p91)。

 「そのとき無もなかった。」(10・129〜この数字が10章129節の意味なのか、また別の呼称を持っているのか、残念ながらこの本からはそれを知ることができなかった)

 世界の始まりについての言葉だそうである。聖書の創世記にある「光あれ」に相当する言葉なのだろうか。この「そのとき無もなかった」と言う言葉の意味が私に理解できたとは思わない。こうして書いているときでさえ、その言葉の意味がまるで分かっていない。そして「分かっていない」ことを余りにも明確に自分の中に確かめられる、そんな自分にも驚いている。

 それでも私はどこかで、この言葉に納得している自分を感じていた。私たちは「有」の世界に住んでいる。二元論に毒されているからなのかもしれないけれど、少なくとも私は現実世界を「有」と「無」に分けて、様々な事象をそのいずれかに当てはめていくことを、ごく当たり前のことと考えてきた。

 「無すらない」、なんと不思議な言葉であり世界なのだろう。そしてなんと奇妙な発想だろう。「有」と「無」に分けるのではない。そこには「無すらなかった」というのである。そうした世界を想像しようとしても、私には皆目理解できない。「無」すらない世界なんて言葉としてはともかく、観念的にも空想的にも私の理解の能力をたっぷり超えている。

 それでもこの言葉には、どこかストンと落ちるものを感じたのである。それは感じただけであって、理解できたこととはまるで違うことくらい承知している。「無もない」って、一体どういうことなんだと問われても、絶句するだけで、少しも説明することなど私にはできない。にもかかわらず、この言葉は私の心にストンと落ちたのである。

 世の中分からないことだらけだろう。ビックバンはどこから始まったのが、宇宙に果てはあるのか、四次元ってどんな世界なのか、パラレルワールドとは一体何か、などなど、想像の世界を超えて、理解できないことどもに世界は満ちている。

 宇宙は無からインフレーションそしてビックバンを経て誕生したのか。それをどのように理解すればいいのか。また、宇宙に果てはないと言う。そして私はそれを信じている。でも、信じていると言いつつ私は頭は、どこかで巨大な風船のような宇宙を思い描いている。その風船が際限なく膨張していく姿を、私はどこかで宇宙として理解しようとしている。果てのない宇宙という発想そのものを、私の頭は「考えよ」と私自身に命じている。そして同時に現実に理解できない私がいるのである。

 まあそれは、私の能力の限界のせいだと言われてしまえばそれまでのことではある。現在のコンピューターは、「0」と「1」の二進法で構成されている。そのことはきちんと理解できるつもりである。ところが、量子コンピューターは、一つの素子が「0」でもあり「1」でもある状態を基に構成されているという。言葉としては「0」でもあり「1」でもあるという内容は分かる。でもそれがどういう状況なのか、現実に量子コンピュータが実用化され販売されるまでになっているのに、私にはまるで理解できないままである。

 四次元も同じである。零次元が点で、一次元が直線、二次元が平面、そして三次元が私たちの住む立体の世界ということは分かっている。もちろん、面積を持たない点であるとか、幅を持たない線、更には厚みのない平面というものだって、現実世界では考えられない。それでも理屈の上では、何となく理解できているつもりである。

 だが四次元となると、想像すらつかない。一次元の切り口が零次元になり、二次元の切り口が一次元、そして三次元の切り口は二次元になると言われると、そこまでは素直に理解できる。

 しかし、四次元の切り口が三次元世界になると言われたとたんに、観念的に言葉としては理解できるけれど、それがどんなものなのか、現実世界とどんなつながり方をしているのかなど、まるで理解できず空想することすら覚束なくなってしまう。メビウスの輪やクラインの壺を思い浮かべたところで、お手上げである。

 パラレルワールドだってそうである。例えば私の人生にも、その時々における様々な選択の場面があったことは否めない。就職や結婚などの重大な意思決定から、どうでもいいような、例えば昼飯にラーメンを食うかカレーにするかのような決定でもいい。トイレに今行くか、仕事を済ませて2分後に行くなどのどうでもいい選択でもいい。そうした多様な選択に応じた、多様な宇宙がこの世に分岐するとの考えがパラレルワールドである。

 もちろん宇宙は無限なのだから、一つ一つの宇宙に際限がなくたって別に構わない。そうした宇宙が無限にあったところで、無限の宇宙が混雑することも、ぶつかり合うこともないだろうからである。だから私独自の宇宙が無限にあり、世界中の人間のそれぞれに、更には犬猫やゴキブリや細菌の一匹ごとに数多の宇宙が存在したところで、矛盾することはないだろう。無限が無限個あったところで、宇宙そのものが無限なのだから競合したり衝突したり矛盾したりすることはないだろう。

 とここまでは理屈で分かるけれど、それが実感としてどこまで理解できるかとなると答はない。答などなくてもいいのかもしれない。「どんなものにも答がある」と考えるのは、人間の驕りなのかもしれないからである。答がなくても人は生きていけるのだし、答があったところで人生が変わるかどうか分からない。パラレルワールドが証明されたとしても、無限にある私の他の分岐された宇宙を経験することなどできないだろうからである。

 分岐した別の世界では、私はノーベル賞を受賞しているかもしれない。また、もしかしたらホームレスになって、路地裏の片隅でダンポールに包まれて短い生涯を終えているかもしれない。でもそうした別の宇宙が現実として存在していたとしても、それを私は経験することはない。だとするなら、無限の中のたった一つの今の私の所属する宇宙を、大切にするしかないように思う。

 それにしてもインド哲学の「無すらない」との発想が、私に今まで感じたことのない気持ちを呼び覚ましてくれた。聖書でも日本書紀や古事記でも、恐らく世界のどの国のどの民族にも、宇宙創成や人類発祥の物語はきっとあるに違いない。でも、「無すらない」としたそんな思いには、初めて出会ったような気がしている。


                               2019.7.20        佐々木利夫


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無すらない