「・・・女性議員は男・・・以上に地域に密着した存在でもある。・・・ある調査では、住民との意見交換の頻度が週三回以上なのは男性7.8%に対し、女性は17.4%。週一回、週二回も女性が多く、住民に寄り添う態度は男性を上回る。・・・」(2019.3.18、朝日新聞、「三割を超える人数必要」、相内眞子・元北翔大学長)

 こんな記事を読んだ。女性の政治参加を推進しようとする意見である。そのことになんの異論もない。むしろ彼女の主張する「三割」を超え五分五分になることのほうがもっと望ましいとすら考えている。

 気になったのは、彼女が自らの主張の根拠としている「・・・週三回以上住民と意見交換している議員が、男性では7.8%なのに、女性では17.4%と二倍に近い」ことのデータの出所がどこにも示されていないことであった。

 彼女は、女性議員の方が政治参加に関して住民との接触している割合が、男性の二倍以上高いと主張しているにもかかわらず、そしてその事実を具体的な数値で裏付けようとしているにもかかわらず、その裏づけデータをどこから持ってきたのかを、一切示していないのである。

 こんな主張なり、裏づけの仕方などが許されるなら、それが統計的なデータにしろ、はたまたどこかの哲人からの引用にしろ、根拠なしに利用できることになってしまうのではないだろうか。つまり、こんなことを許しててしまったなら、その根拠が「本当のこと」なのか、それとも「根拠のない勝手な作り話なのか」の区別がまるでつかなくなることを意味してしまう。

 つまり、ここで彼女が主張の裏づけとしている「男性7.8%、女性17.4」の数値だって、根拠を示さなくてもいいのだとするなら、「男性3%、女性28%と、女性の方が10倍近い関心の高さを持っている」との主張もそのまま認めざるを得ないことになってしまう。

 データや根拠を示したところで、恐らく新聞読者がその事実を検証しようとするような行動にでることは、恐らくないだろう。だからと言ってその根拠が必要ないことを意味しているのではない。根拠を示すことで、その根拠を追求すれば引用された事実と同じ事実がそこに示されているだろうことが信頼できるからであり、そのことを信頼しているからなのである。

 私がこのエッセイを作成するに当たり、冒頭に掲げた文章が朝日新聞からの引用であることを日付で示した。私はその引用の根拠として、2019.3.18の朝日新聞であるとした。でも恐らく、私のこのエッセイを読んだ人が、その記載された日付の新聞を開いて確かめてみるようなことは恐らくないだろうと思う。

 そうした意味では、私が書いた「2019.3.18、朝日新聞」という記述は、まるで意味を持たないことになる。「私が書いた」ということだけでは、なんら信用が置けないからである。

 それでも、もし私が引用した文章が本当かどうか確認したいと思う人がいたとするなら、この日付の朝日新聞、もしくは縮刷版などで、この引用文か退化に朝日新聞に掲載されていたかどうかを確認することができるのである。

 私は、ある日付の朝日新聞の記事が、日本中どこでも同一なのかどうか、必ずしも知っているわけではない。おそらく全国紙にも地方版というのあり、しかも印刷時刻を示す「第○版」というのがそれぞれにあることだろう。そして熊本と札幌では取り上げ゛るニュースによって、掲載される記事が異なるような気がしている。恐らく「札幌」に特有で、しかも「札幌市民の興味をひくだろう」と思われるニュースは、札幌版だけに掲載されることだってあるだろうと思う。

 また、新聞は時々刻々と変化する様々なニュースの一つの断面を示しているに過ぎない。例えば新聞を印刷中に例えば札幌で大きな地震があったとする。地震情報を記事として載せたいと新聞社は考え、しかも記事内容の差し替えが可能であるような状況にあるときなどは、恐らく同じ日付の札幌版であっても印刷した時刻によってある記事が掲載されたり削除されたりすることだってあるのではないかと思う。

 そうした意味では私の引用の仕方も、例えば「2019.3.18、朝日新聞、札幌版第○刷、×面中段」くらいの細部にいたるまでを書かなければならなかったのかもしれない。そうした意味では私の引用の仕方も必ずしも満点とは言えないだろう。ただ、私が札幌に住んでいることは明らかであり、私というへそ曲がりに引っかかるニュースというのは、得てして地方版というよりは全国版に掲載されていることが多く、だとすれば朝日新聞全国版として全国共通ではないかとの思いがあること、そして引用の紹介文があまり長くなるのは面倒くさいことなどもあつて日付だけの引用形式になっている。

 どこまで引用文を細かく記載すべきかは難しいところではあるだろう。たとえば夏目漱石のフレーズを引用したときに、仮にそれが夏目漱石自身の著作として発表されているものだとしても、それだけで原典にとどくものではない。

 作者名だけでいいのか、作品名も付け加えるのか、さらにはそれが印刷されている書籍の何ページの何行目なのか、その著作はどの発行所でいつ発行されたのかなどなど、詳しく求められれば求められるほど、引用データの紹介は長くなっていく。

 それでも少なくとも、その引用した文章なりデータが真実であることを示すためには、最低限出所先を示しておく必要があると思う。出所先の明示が不完全というならともかく、まるで示していない今回の新聞記事における彼女の主張は、不確かを超えてまるで「意味がない」、「根拠のない身勝手な主張」、そんな風に思えてしまうのである。

 なぜなら、彼女の主張する数値は、いつ、どんな母集団から得られたデータなのかまるで分からないからである。単なる彼女の捏造による数値だと思われても仕方がないような、引用になっているからである。


                               2019.3.23        佐々木利夫


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引用の嘘?