NHKのEテレで、「世界の哲学者に人生相談」という番組が放送されている。この番組はシーズン2であり、前回は録画してまで一生懸命見ていたのだが、どこか違和感があって最近では興味を失ってしまった。今ではほとんど見ていない。今回見たのは、たまたま昼間の再放送にぶっかったからであった。

 今回のタイトルが何だったのか、途中から見たので分からない。ただ番組の中で、「解決のできない不安」への答として、哲学者ハイデガー(ドイツ、1889〜1976年)の語ったとされるタイトルに掲げた言葉が紹介されたのが気になった。

 それを聞いて、「あぁ、またか」と急速に興味を失ってしまったのであった。「根源的な時間に生きよ」、・・・この言葉だけを捉えるなら、いかにも尤もらしい高尚な響きを持っている。まさに哲学的と言ってもいいほどの警句であろう。

 しかし考えてみるとこの言葉は、「解決のできない不安」に対して、何の答にもなっていないように思えたのである。なぜなら、答だとするこの言葉の意味が、まるで私に伝わってこなかったからである。

 私の哲学に対する知識は、高校時代に抱いた「青臭い哲学幻想」程度のものでしかない。それでも、それから今日まで、中途半端ながら哲学には興味を持ち続けてきたつもりである。たとえ「いい加減な興味」の範囲を超えない程度の、お粗末なものに過ぎないとしても・・・。

 この程度の知識なのだから、私の哲学は人に誇れるようにものではない。そうは言っても、哲学にまるで興味のない者よりは、いささかなりとも理解できる立場にはあるように自分では思っている。そしてこうしてエッセイを1500本近くも書くなど、文章にもそれなりの興味を持って人生を過ごしてきた。

 そんな私であるにも関わらず、彼の言う「根源的な時間に生きよ」の意味が少しも伝わってこなかったのである。何かそれらしいことを言っている程度のことは分かった。哲学的な感触のあるフレーズであることも、何となく分かるような気はした。だが、ハイデガーがこの言葉を放ったであろう思いや心の背景が、この言葉からは少しも伝わってこなかったのである。

 もちろん、ハイデガー個人についての知識も彼の哲学も、私にはほとんど知識がない。せいぜい人名事典数行程度の知識であり、皆無に近い。ただ、彼が世界的な著名人であり哲学者であり、多くの信奉者を抱えている思想家であることくらいは知っていた。だとするなら、この言葉には「解決のできない不安」に対する明快な答が示されているのかもしれない。

 ハイデガー自身が、こうした不安に対する答としてこの言葉を掲げたのか、それとも番組の関係者が彼のこの言葉が回答にふさわしいと考えて取り上げたのか、その辺のことは分からない。

 さてここでこの答を、ハイデガーの側からではなく、不安を抱く側の問いかけの面から考え直してみよう。そうしたとき、回答は世界に冠たる哲学者からのものかもしれないけれど、不安を抱くのは決してそんな大天才に限るものではないことが分かる。

 「解決のできない不安」を抱くのはむしろ、普通の人たちなのではないだろうかということである。ごく当たり前の、才能もそれほどなければ金もない、ごくごく普通に生きている一般人だと思うのである。

 アインシュタインにだって「解決のできない不安」に悩んだことがあっただろう。でも普通の人たちこそが、そうした不安に悩み、その答を求めているのではないかと思うのである。そして彼もしくは番組は、アインシュタインの悩みに対する答としてではなく、ごく当たり前の人の悩みに対する回答としてこの言葉を選んだのだと思う。

 でも、でも、果たしてこの言葉が回答になるとハイデガーはどこまで思ったのだろうか。この言葉を発したのは彼である。哲学者という肩書きが、どうしてつけられるのか、きちんと私に分かっているわけではない。でも、少なくとも「自分の悩みの解決」という枠内では律しきれない方向を、哲学者は目指しているのではないだろうか。

 彼は神学者でもある。ならば彼はむしろ、「自分ではない誰か」を対象として、その者たちに救いを与える者として存在すべき知識人なのではないだろうか。そうした思いを、心理士とかカウンセラー、更には医者や教師などと並べるつもりはない。

 しかし、少なくとも「他者の人生」を研究し、そうした者の生き様や悩みなどの解決の一助に向かおうとするところに、哲学という学問、そして哲学者は存在しているのではないだろうか。

 つまり哲学には、他者の悩みに添うような役割というか、機能が求められているように思うのである。もしそうした思いが少しでもあるのなら、哲学者とは「悩んでいる者に答を与える役目を負う者」であると思うのである。だとするなら、哲学者とは人に指針を与える者である。そして助言者であり、共に悩みを背負おうとする共感者でなければならない。

 だとするなら、哲学者は、そうして彼は「分かる言葉」、もっと言うなら「分かりやすい言葉」、「誰にでも理解できるような言葉」を使うことで、他者に寄り添うことが求められているのではないだろうか。

 「哲学的」という言葉には、もしかしたら「チンプンカンプン」とか、「尤もらしいけれど中味がない」、そんな意味が含まれているのかもしれない。またそれが哲学だと思っている人が多いのかもしれない。

 それでも「理解できないような回答」を、いかにもそれらしく飾り立てて示すことは、逆に言うと救いを求める者に対する裏切りになっているのではないだろうか。

 もしかしたら哲学者の言葉というのは、私が理解できないだけで、ほとんどの人は「了解できる内容」を持っているのかもしれない。「解決できない不安」と一口に言ったところで、余りにも多様である。そうした悩みは、一人の人間にも複数存在するとするなら、人の数の数倍も悩みは存在することになるだろう。

 そうした無数とも言える悩みに対して、哲学者はふさわしい回答を与えなければならないのかもしれない。そうしたとき、その回答はある程度抽象的にならざるを得ないのかもしれない。それが分からないではない。

 ところで、単純に聞いてみよう。あなたにも多くの「解決のできない不安」があるだろう。哲学者ハイデガーは、そうした悩みに対して「根源的な時間に生きよ」とする回答を示唆した。あなたは、この答から、その悩みに対する解決方法を見出すことができるだろうか。もしできるとしたなら、このエッセイは私の稚拙さをそのまま証明するものになる。私がいかに愚鈍であるかを、私はここで自白していることになるのである。

 ああ、なんたることか。このエッセイは私が愚鈍であることの、自白調書になっているのかもしれないのである。哲学青年の残滓を、少なくとも数十年抱いてきた名残りが、こんなお粗末な結果だったのである。


                             2019.5.28        佐々木利夫


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根源的な時間に生きよ