「これからの高齢者は、ひとつ年を重ねるごとに強くなって自立的に生きていく覚悟が必要」。こんなことの書いてある記事を読んだ。人生100年時代をテーマに、4人の有識者による紙上対談の中の一文である(2019.2.11、朝日新聞、『老後の3K』 どう向き合う)。Kとは健康・経済・孤独の三つを意味するらしい。

 大体の意見が「貯金もあまりない。そろそろ将来のことを見据えて準備したい」、「年金だけで100歳までいきるのは不安」、「年金が頼りだが、社会保険料や食費が高くなり不安は増している」、「医療費にはかかるものと、(個室希望など)かけるものがある」、「子どもにみてもらうつもりはない」、「夫婦どちらかでも健康を損なえば、医療費だけでなくあらゆる面にお金がかかりそう」などなど、健康や孤独も心配らしいが、専ら「お金はやはり不安」に集中している。

 私もあと一年で80歳なる。だからこうした意見に全面的に賛成する。だから「老後に最も不安を感じることは何かと尋ねると、「健康・経済・孤独」が合わせて9割近くに」と書いてある記事はもっともだと思う。どこにも反論する余地など無いくらい正論である。

 それでも冒頭に掲げた一言だけは、正論だと認めつつ、何の意味も持っていないのではないかと思えてならなかった。「・・・年を重ねるごとに強くなれ、自立的に生きる覚悟を持て・・・」そんなことを、本当に思っているのだろうか。そして年を重ねていく老人に、本当に「そう、なれ」と要求しているのだろうか。

 私にはこの言葉が、実行不可能かつ「ないものねだり」に思えてならないのである。言ってることが間違いだとは思わない。「年を重ねるごとに強くなれ」、本当に強くなりたいと思っている。でも年ごとに弱っていく身体に抗うことは無理である。足腰が弱ってきて体も精神も病気がちになっていく、そうした加齢に伴う弱さの増加に対して、「強くなれ」の一言で解決するものだとは思えない。

 「自立せよ・・・」は、一人の人間としての生き様の成果として、私自身もそう考えてきた。だがこの新聞でが取り上げている企画の対象者は、「人生100年時代」と銘打っている以上老人が相手だろう。そのことは、意見を述べている人たちの年齢が、若くて53歳、残りは61、65、70歳であることからも分かる。

 だが老人に向かって「自立せよ」と放つことは、どこまで具体的な意味を持つだろうか。ここで言う「自立」とは、単なる気持ちの問題ではないだろう。もしその発言が、老人自身の意志による健康・経済・孤独を含めた意味での「自立」だとするなら、一人の人間として自らのコントロールの範囲を超えてしまうのではないだろうか。

 この新聞記事は老人に向けたものである。自立とは個々人に対するものだと言いながら、こんなことを言ってしまうのは自己矛盾になるかも知れないが、だとするなら老人とは一般に身体共に下降線を辿る年齢層を指す。それが一日を単位と考えるか、または一ヶ月や一年を単位として考えるかはともかく、常に下降線を辿っていく年齢層を指す。

 そうした老人に向かって、自立せよとの宣告は、「上昇せよ」との指示と同義である。現状維持でさえ難しい個人に向かって、上昇せよと宣告するのである。

 老人にとっての自立とは、一体どこまでの努力が要求されるのだろうか。寝たきりで、食べることも入浴や排泄まで、あらゆる行動を人任せにすることが老人の実態だとは思わない。自立の意味をすべての自助努力と解するなら、トイレまで自分の足で歩こうとすることも、食事を点滴や胃ろう状態から、僅かにしろ口で食べることへと努力することも自立の範囲に入ることになるのだろうか。

 そうすると自立の定義は、自立しようと考えている者、もしくは自立させようとしている対象者の努力可能な範囲を基礎に考えなければならないものなのだろうか。だとするなら、寝たきりの植物人間に向かっての「自立せよ」とは、自発呼吸を求めることや水を一口でも飲むことを意味する。

 逆に20歳代、30歳代の健常者に向けた自立とは、エベレストに登ったり起業家として富を獲得することや、芸術家や音楽家として成功することなどまで含むことになるのだろうか。そして、幼児や10歳代に向かって使う「自立」とは、それなりの別の意味を持っているということなのだろうか。

 つまり自立とは、「己の可能性」を射程範囲とする、一種の閉鎖的な空間における身勝手な思い」にしか過ぎないものなのだろうか。だとするなら、その射程範囲は身の裡にしかないことになる。他人の自立は、あくまで他人たるその人の限定された自立であって、「私の自立」とは無縁なものなのだろうか。

 こんな風に考えてくると、自立もまた個々人に限定された一身専属的な目標にしか過ぎず、他者の介入を許さない己だけのもののような気がする。つまり、己の自立とは「己自身に限定された自立」なのかということである。

 さてこの新聞記事に戻って考えよう。ここでの対象者は「これからの高齢者」となっている。それは、これから高齢者になる老人予備軍を対象としたものなのだろうか。それとも今も高齢者だが更に年齢を重ねてゆく老人を対象にした記事なのだろうか。たまたま私が読んだので、私世代に向けて書かれた記事だと私が錯覚しただけで、もしかしたら若者も含めた別世代を対象とした記事なのだろうか。

 ただ記事は「自立の覚悟」という表現をしているので、「自立の覚悟」が乏しくなりかかっている世代に向けて、「もっと頑張れ」と鼓舞しているようにも思える。もしそうならこの企画は、老人、それも老齢後期の世代に向けたものなのではないだろうか。

 もちろん老人になっていくことで、様々のことどもが「できなくなっていく」ことへと結びつくことは否めない。それはそうだとしても、そうしたことが絶望に結びつくものだとは必ずしも思わない。老いることで出来ることが増えていくことだって、沢山あると思うからである。

 ただそうは言っても、それがこの記事に書かれている「自立への覚悟」みたいな積極的な事柄に結びつくものだとは思えない。つまり、「覚悟」といわれるほどの積極性を持つチャレンジ精神を老人に持てと言われても無理なように思える。

 今をあるがままに楽しみ、「出来ないことだらけ」になっていく己を承認した上で、老いることの中に「自立の覚悟」みたいな悲壮感の漂う思いではなく、もっと緩やかで充実とか柔らかさのある感触を、社会も政治も与えてくれるような世の中になれないものだろうか。

 私にはこの「自立の覚悟」という言葉の中に、何でもかんでも自己責任みたいな枠内に閉じ込めようとする、いかにも正論ぶった冷たさを感じてしまったのである。


                               2019.2.23        佐々木利夫


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自立の覚悟