祈りとは何か、信仰とは何なのか、宗教の意味、神は死んだのか、などなど、これまで私は何度もこうしたテーマについて書いてきた。時にギリシャ神話を訪ね、時に聖書に頼り、時にイスラム教やキリスト教に教えを乞うなどもしてきた。

 そして結局は、「まるで分からない」を連発するしかない自身を認識するしかない現実にぶつかっている。物理的、物質的な意味での神の不存在は、私なりに確信している。それでも物質を超えた「意志の存在」を根本から否定できるのかどうかは、まだ私の中でもやもやしたまま残されている。

 例えば「命」。命は物質から作られている。人類も昆虫も植物も、物質的には炭素とか水素・窒素などのいわゆる物質から構成されている。そしてそうした物質から一段超えたところに「命」はある。研究者が、物質を使って圧力や温度やなどの刺激を様々に変化させて実験しても、タンパク質やアミノ酸を作ることまではできたけれど、命の合成にまでは今のところ届いていない。

 それは「現状の科学技術」ではできないだけであって、将来的にも不可能なのではないかもしれない。それを理解しつつも、物質から命への過程には大きな隔絶があり、それをこんな表現で示してしまっていいのかどうか疑問ではあるけれど、そこに「神の一撃」とも言うべき特別な力が働いているような気のしないでもない。

 ならばそこに神ともいうべき何らかの存在を認めるのか、と反論されそうだが、そこまで確信めいたものはない。ただ、どうしてもそこに「何らかの意志」みたいな、人智を超えた意志みたいなものを感じてしまうのである。

 神はいずれにしても「人」との関わりにおいてのみ、存在するものである。人間と無関係な神なぞ、ありはしない。仮にあったとしても、それが人間と関わりの持たないものであるのなら、それは「神」としての存在そのものを否定してしまうことになるからである。

 例えば深海の底に、まだ人類には未発見の細菌がいたとする。その細菌が何らかの意識を持っていたとしても、人間がその存在を知らずしかも人間と交流がない以上、少なくとも「人間にとっては不存在」である。それと同様に、例えば犬猫や特定の魚や昆虫が神とされることもない。

 それでは「人との関わり」とは何なのだろうか。神とは信仰の対象である。それを「願いの対象」、もしくは願えば叶えられる能力を持った何らかの力と呼んでいいのかもしれない。それはつまり、人間との交流であり、それは互いに理解できるという前提を持っている。つまり、人と神は交流できる、もしくは交流可能であると人は信じているのである。

 人の願いを神が常に叶えてくれるという保証はないかもしれない。それでも少なくとも「叶えてくれる可能性」だけは、神は人との交流で信じさせたのである。だから人は神に対して「助けたまえ」と懇願し、神はその懇願を時に叶えたのである。これが信仰の基礎である。つまり、「人間に無関心な神」というものは、そもそも神ではないのである。

 神は人智の上を行くものと考えられているから、「願いを叶える」ことだけがその人にとって最良とは限らないことを神は知っているのかもしれない。単に「願う」だけではなく、叶うために努力することこそが最善だと神が信じた場合、「願いを叶えない」こともまた、神の意志に入るだろうからである。

 それでも今の時代は、神の不存在は余りにも明白になってきたのではないだろうか。神の能力は、その万能性にある。「神は万能なり」、これこそが神の資格でありる。だからこそ神はその存在を示すことができたのである。

 神は常に万能かと問われるなら、例えばギリシャやローマの神、そして古事記に現れた日本の神々などのように、必ずしも万能とは言えない神も存在している。それらは人間を超える力はあっても、時に嫉妬し時に憎しみを抱き、時に恋愛に現を抜かすなど、余りにも人間的である。そうした不完全な神々の存在を、私たちは数多く見ることができる。

 それでも一神教の神は、常に万能であったような気がする。「願いを叶えるか、叶えないか」も含めて、神は万能自在であることが存在理由になっている。そうした万能性を、いつの間にか神は示さなくなった。示さなくなったのか、それとも示せなくなったしまったのか、もしくは万能である能力を失ってしまったのか、その辺のところは分からないけれど、神は己が万能であることを私たちに示せなくなったのである。

 「願いを叶える」ことこそが、神の存在理由だと言った。そうしたときの「願う者」とは、かつては一人一人の人間であった。「私の願い」を叶えてくれるかどうか、それが神の存在を支える証拠になっていたのである。その必要な証拠を、神は示せなくなってきている。それはそのまま神の実力を示せなくなったことであり、神の存在そのものを立証できなくなってきたことを意味する。

 しかもその「願う者」が個人から集団に変化してきたことも背景にある。個々人の願いには、それぞれの思惑から来る、例えば「わがまま」、「偏見」、「欲望」、「嫉妬や憎しみ」などの背景を抱えていることが多い。だが、そうした願いが、例えば多人数、地域全体、民族などにまで拡大してくると、そうした個人的な偏見は全体意思の中に消えてしまう。

 そうした願いは、やがて純粋な「人としての願い」にまで昇華することになる。それは「願い」そのものの昇華でもある。そうなると、人間に君臨する神としては、そうした願いを無視することはできないまでになってくる。

 それにもかかわらず、神は自らの万能性を発揮できないのである。「発揮できない」ことは、万能性そのものの喪失を意味する。神は万能でないことを、結果的に示すことになったのである。万能性を失った神は、もはや神ではない。神としてもその存在を自ら示せないでいるうちに、神を信じていた人たちも神の万能性を信じなくなってきた。

 「願い」は増え、多数化する一方である。戦争、平和、原爆、貧困、遺伝子操作、交通事故、殺人、犯罪、いじめ、DV、・・・、助けてくれと叫ぶ多くの願いに対し、神は手をこまねくばかりである。なす術を知らず放置するしかないのである。

 神は今でも存在しているのかもしれない。だが、万能性を示せなくなった神は、その存在理由を失ったのである。神は死んではいないのかも知れない。けれども、少なくとも生きている意味を失ったのである。それを凡庸とか能力不足とかという言葉で曖昧化してはいけない。

 それとも神は人間に関心を持てなくなったのだろうか。人間に無関心な神、それは少なくとも人間にとって必要のない存在である。神の復活などは、もう望むべきもないのだろうか。


                                     2019.2.6        佐々木利夫


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神の不存在