単なるきっかけにしか過ぎないのだが、BSテレビの放送大学を見ていてこんな発信をしている講座にぶつかった。放送大学を受講することで大学資格をとろうとか、特別な講座をマスターしようなどと思ったわけではない。テレビのどこを回してもコマーシャルだけだったり、NHKは野球、Eテレは将棋などというときがあり、私に馴染むような番組にお目にかかれないときがある。そんなときに思いついたようにこの放送大学のチャンネルを選ぶことがある。

 放送大学にも、時折番組そのものを紹介するコマーシャルじみた放送が入ることはある。それでも講座への好悪、番組に対する興味の程度はともかく、コマーシャルなしが気に入ってけっこう見る機会は多い。

 そんな無責任な視聴者なのだが、聞いてる中に講師の放つこんな一言に何度かぶつかり、それがどこか気になってしまった。しかもこの言葉は、この番組の講師に限らず、世の中一般にまでそれなり広まっているように思えたのである。

 それは、社会貢献でも、国際協調、政治対立の解決などなど、テーマは何でもいいのだが、そうしたある理想というか望ましい結果の実現のためには、「・・・などの環境を整える必要がある」とする発言が多いことについてであった。こんな言い回しは、この放送に限るものではない。政治や経済や福祉など、あらゆる場面で多用されているように感じたのである。

 こうした言い回しが分らないというのではない。分かりすぎるほど分かると言ってもいい。それにもかかわらず気になったのは、この言葉は契機であって結論では絶対にないだろうと思ったからである。そしてそれが私のへそ曲がりアンテナを刺激したのである。

 つまりその言葉は、ある理想の実現のためにはふさわしい環境が必要であると言っているだけにしか過ぎないからである。それはトートロギー、二重反復にしか過ぎないのではないか、少しも提言になっていないのではないかと思えたからである。当たり前のことを、あたかも解決のための条件のように言っているだけで、中身が一つもないと思えたからである。

 「環境を整えよう」と提言するだけで理想が実現したり現実になるのなら、世界平和もガン根絶も、難民解消も貧困対策も宇宙旅行も、なんならタイムマシンだって実現することになるのではないかと思えたからである。

 私は別に「環境を整える」そのことを、否定したいと思っているわけではない。「環境を整える」必要がないなどと思っているわけでもない。むしろ逆である。環境を整えることは必要であり、むしろ必須だとすら思っている。

 ただ言いたいのは、この言葉を使っている講師のように、「環境を整える必要がある」という言葉を、一種の結論として使っていることに変だと思ったのである。「環境を整える」ことが、あたかも問題提起に対する答えでもあるかのよう断定している感触が、そもそも間違いではないかと思えたのである。

 「環境を整える」ことは、目的に到達するための契機にしか過ぎないのではないかと私は思う。どんな環境を、どんな風に整えていくのか、そしてその結果をどのようにフィードバックしていくのか、そうした実践と検証なしには、「環境を整える」という言葉は単なる無責任な言い出しっぺにしかならないのではないかと思えたのである。

 こうした意識で様々な場面を見ていると、こうした「環境を整える」のような無責任な言い出しっぺに過ぎない表現が、世の中には溢れているように思えたのである。そしてそうした無責任な意見が、あたかも実現のための重大な回答であるかのように、本人も思い社会も思い、メディアなどの仲介者も思っているような風潮に囲まれているように思えてきたのである。

 だから「環境を整える」は、決して答えにはなりえないと思い、答えになると錯覚している発言者や周囲の思惑が、むしろ間違った方向へ多くの人々を誘導しているのではないかと思うようになってきたのである。


                               2019.3.29        佐々木利夫


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・・・の環境を整える