終活に関連させて、ゴミの後始末や大掃除がテレビを賑わしている。正月が近づき年末大掃除に引っ掛けて企画した番組なのかもしれないし、少子高齢化が進んで、隣近所にゴミを溜め込んだ爺さん婆さんが溢れている現状を反映したのかもしれない。

 ゴミ整理の手順というか基本はこうであると、テレビの後片付け評論家・専門家はこんな風にアナウンスする。まず、@目の前に大量のゴミ(と称するもの)がある。Aそれを必要に応じて分ける。B不用なゴミを捨てる(減らす)、C残ったものを整頓する。Dすっきりして気持ちがいい。

 でも私にはこの手順ごとに、どこか気になってしまったのである。

 @ 「大量のゴミ」と言うけれど、大量であることの中にどこか安心感みたいなものが含まれているのだとしたら、それをゴミとして簡単に整理してしまっていいのだろうか。ゴミかゴミでないかの評価は、極めて主観的なものである。あなたにとってのゴミが、私のゴミであるとは必ずしも限らない。そして大量のものの存在は、そのまま豊かさであるとか安心感につながる場合も多いのではないだろうか。

 そうした安心感が、必ずしも正常であるとは言えないのかもしれない。それでも、大量生産・大量消費に馴らされてきた私たちにとって、量の多さはある意味豊かさの象徴でもあるのではないだろうか。タンスや冷蔵庫に溢れている品々を、単に溢れていることだけを捉えてゴミと言ってしまっていいいのだろうか。

 A 「必要に応じてゴミを分別する」と言うけれど、その決断ができないのも人間である。しかもその分け方に、厳格な基準があるわけではない。絶対必要なものから完全に不要と思われるものにいたるまでの様々に、人はどこまで折り合いをつけられるのだろうか。必要であるとの思いを、単に「ものに執着している」という一言で切り捨てててしまうのは、どこか冷たいような気がしてならない。

 今目の前にある、「かつて私が手に入れたもの」を分別しようとしているのである。不要のレッテルを貼られたものは、貼られるだけで終わるのではない。捨てられるのである。永久に目の前から消滅してしまうのである。後悔しても元には戻ることはなく、選別の過ちは後悔の永続へと続くのである。

 B どんなものにもすべて効用がある。どんなものも、必要だから手に入れたのだし、その使いみちに魅力を感じたからこそ、残したいと思ったのである。その効用は多くの場合、現在でもそのものの中に潜在している。壊れてしまったのでない限り、効用は決して失われることはないのである。

 にもかかわらず、その効用を永久に放棄せよと、片付けの達人は一方的に宣言する。しかもその効用はあくまで私の効用であるはずなのに、なぜか他者である片付けの達人は、自らの意思のみでその判定を強要するのである。

 C 片付けの達人の主張は、不要とされたものの廃棄だけにとどまらない。残されたものにも、「整頓」と称する一種の片付けを求めるのである。整頓とは恐らく、利用の頻度というか愛着の度合いを目安として分別することを意味するのであろう。目の届くところ(つまり利用しやすい場所)へ収蔵するか、それとも物置や押入れの奥などの比較的不便な場所で収蔵するかの区別をするのである。

 これにも「程度の距離感」が強く影響してくる。よく利用する、時々利用する、たまに利用する、滅多に利用しない、などなどの違いは、どういう風に分けたらいいのだろうか。滅多に使わない、もしくは絶対と言っていいほど使わないけれど、これには我が子やあの人との思い出が溢れるほど詰まっている・・・、そうしたものを、利用頻度の違いだけで、物置の隅っこに押し込んでしまっていいのだろうか。

 D 片付けの達人は、「これですっきりするでしょう」と宣言する。でも本当にそうなのだろうか。確かに目の前から雑多なゴミは減った。減ったという現象は、確かに空間が広がったことを意味する。それはまた、利用できる空間の増加を意味することでもある。

 でもそれは同時に、思い出などの記憶の喪失につながるものではないだろうか。大切なものを失ってしまったという喪失感につながることはないのだろうか。しかも喪失感につながったとしても、それは既に捨ててしまっているのであり、手遅れなのである。

 片付けの達人は常に言う。残すか、残さないか、残したとしても身近に置くか収蔵してしまうかなどの判断は、すべて自己責任ですと。でもそれができないから、「他人の言うところのゴミ」になってしまっているのでないだろうか。片付け名人のアドバイスは、単なる仕切り人の身勝手な独断であり、同時に「すっきりしたでしょう」との思いは、単なる仕切り人の自己満足にしか過ぎないのではないだろうか。


                                     2019.1.9        佐々木利夫


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片付けの論理