タイトルだけ見ると、いかにもロマンティックな詩のテーマのようだ。だが、私はそれほどの詩人ではないし、そんな実力もない。これから書こうとしているのは、そのまま「吹いている風が、私に届くこと」そのものに対するへそ曲がり老人の反応である。

 私に届く風と言っても、まさに多様である。快晴の青空に吹く風もあれば、台風下の暴風雨の暴力的な風もある。また、人工的な扇風機からの風も私に届く風だし、温風暖房機からのホッとする風もある。風は、単なる空気の動きに過ぎないから、温度や気圧の差により、風はまさに多様である。

 ここで書こうとしたのは、通勤電車内の扇子の風のことである。ここ数年来、毎日のように部分的にJRを利用して事務所へ通っている。真夏も真冬も、季節に関わりなく私の電車通勤は概ね定時である。そしてやがて夏がやってくる。午前8時を僅かに過ぎて乗る私の電車は、平日なら多くの通勤客が利用する時間帯である。

 一時期の東京の電車のように、ラッシュアワーで通勤客を車内に押し込む役割の交通機関の職員がいるほどの混雑ではないけれど、それでもそれなり車内は混んでいる。だからと言って、その混雑が不満だといいたいのではない。

 二駅目までの僅か数分間の我慢であり、せいぜいが座席に座れない程度の軽めの混雑である。だからそんな程度の混雑に、それほどの不満があるわけではない。

 ところが夏になると、とたんに通勤が苦痛になるのである。それが扇子からの風である。さすがに団扇を使うような乗客は見かけない。だが車内の私の周りにいるせいぜい10数人の乗客のうちに、一人や二人は必ずと言っていいほど扇子で自らをあおぐのである。

 もちろん車内は熱気がこもっているし、冷房も入っているのだろうが満員の車内はそれなりに暑い。だから手動扇風機たる扇子の出番になるのだろう。

 ただ最近は、扇子に代わってハンディ扇風機とでも呼んでいいのだろうか、乾電池を使った手持ちの小型扇風機が流行りだしてきた。

 問題はそうした扇子や小型扇風機の送り出す風が、単に本人に涼を与えるだけでなく、二〜三人離れた隣人にまで届くことである。暑い車内である。そんな風でも、少しは涼を与えてくれるなら感謝することができないではない。

 だが、そこが問題なのである。扇子の風が、涼を与えてくれるだけなら、こんなところで私がへそを曲げることはない。多少なりとも涼しい思いを感じられるなら、いささかの感謝を感じることはあっても、へそを曲げることなど決してないだろう。

 臭いなのである。そのそよ風ともいえる扇子の風にのって届くのは、単なる風だけではない。臭いも同時に私を襲うのである。これがまさにタイトルで示した風の行方の問題なのである。

 扇子を持った人が女性ならば、その人のつけている香水や化粧品の臭いが、その風に乗って私の鼻腔をくすぐるのである。それが男性であるなら、その風には化粧品もあるだろうけれど、ヘアートニックや整髪剤、時にオーデコロンの臭いなどが含まれているのである。

 恐らく当事者本人はそのことに少しも気付いていないだろう。自分がいい臭いと感じて化粧品や香水などを使っているのだろうから、その臭いがまるで気にならないであろうことは理解できる。

 でもそれを強制的に嗅がされる隣人の他者にとっては、まさに苦痛そのものなのである。息を止めるわけにもいかず、そうした風から逃れようにも車内は満員であり、多少身動きできたところでその臭いの勢力範囲から逃れることなど不可能である。

 たしかに私の我慢する時間は、二駅目までの数分間である。でも呼吸をゆっくりにコントロールすることはできず、私は避けられない強制された臭いの空間に閉じ込められたまま耐え続けなければならないのである。

 それはまさに拷問である。確かに不快でない場合もある。だがそれは臭いではないように感じている。若く美しい女性のほんのりした臭いなら、それを苦痛とは感じないように思う。

 男性はすべてダメ。年配の女性は問題外。余り見目麗しくない女性の臭いも失格。妙齢の美しい女性だけを承認する私のこの感触は、「風の行方」などと詩人らしきタイトルをつけてはいるものの、結局は私の独断による偏見なのだろうか。

 このエッセイは、独りよがりの身勝手な老人の、臭いとは無関係な偏見なのだろうか。老人の、単なる身勝手なわがままなのだろうか。それでもやつぱり、そんな臭いの風からは、私は逃げ出したくなるのである。そして逃げ出せないで、二駅苦痛にあえいでいるのである。


                    2019.9.11        佐々木利夫


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風の行方