大相撲の横綱貴勢の里が、春場所(一月場所、東京国技館)の四日目に引退を表明した。横綱になって以来まともに出場したことがほとんどなく、今場所も三連敗となったことが原因らしい。

 そうした経緯と引退がどのように結びつくのか、私にはまるで分からない。恐らくいわゆる「横綱らしい風格というか望ましい振る舞い」みたいな一種の要請が仲間内にあり、それが「本人への有形無形の引退への圧力」みたいな風を起こしたのかもしれない。

 そうしたいわゆる「風を読む」みたいな圧力には、それなりの違和感はある。ただ、私がこの引退で感じたのは、スポーツと呼ばれる競技が、怪我とか体調不良などを原因として「引退」という、いわゆる社会的抹殺とも言うべき状態にまで追い込むという傾向についてであった。

 スポーツとは何か、そんな疑問が私の中に今更ながら湧いてきたのである。私たちはスポーツを運動というレベルで捉えてきた。日常的に体を動かし、そのことによって自身の健康に役立つことをスポーツの目的と理解してきたはずである。

 小学生の時代から、国語算数理科社会と言った教科にまじって、体育の時間が必ず割り当てられていた。それは、スポーツをすることによって心身の健康を保つという意味があった。もちろん小学生のスポーツと言っても、そこに勝敗という要素が入り込むことは避けられなかった。それは近所の友達と草野球や駆けっこをすることにだって、必ず勝敗を重ねていたことからも分かる。

 それでもスポーツの基本的な考えは勝負にあるのではなく、体を鍛えること、そして健康を維持することにあったといえるのである。

 それがいつの間にか勝敗が最大の関心事になるように変化していった。スポーツの目的が心身を鍛えるという目的から離れて、勝負という結果だけに力点が置かれるようになったのである。

 しかも、目的が「勝敗という結果」へと変化したにもかかわらず、なぜか「心身を鍛える」という精神論から離れることはなかった。

 だからスポーツというものを、健康目的とそこから完全に離れた勝負にあるとする考えの二つに分離させて考慮すべきものなのかもしれない。健康管理に力点を置いたスポーツ、勝負を目的としたスポーツというように、二つに分けて理解すべきなのかもしれないということである。

 この両者がなぜか私たちの社会では、スポーツという一つの言葉の中で混同されている。だとするなら、目的も意味もまるで違うものを、同じスポーツという言葉で現そうとしていること自体に無理があるのかもしれない。

 毎日の散歩がいつしかジョギングと呼ばれ、健康管理システムに合致するものとして変節していく。そうした時、ジョギングが健康目的とそれほど離れたものだとはまだ誰も思ってはいないだろう。だが、ジョギングが例えば「皇居一周」みたいな義務感をその人に与え、やがて各地で開催されるマラソン大会に出席するための訓練という目的を持ち始めるようになる。

 そんな瞬間から、スポーツは健康から自己負荷へと変節する。勝つための運動に変わってしまうのである。大会での優勝だけが目的でないにしても、例えば「完走する」、「一定時間内の記録を達成する」、「自己ベストを更新する」などなど、目的は自己負荷も含めて次第にエスカレートしていく。

 そこにはいつの間にか、健康管理の意識などは存在しないようになる。痛い足を引きずってでも完走することが目的になってくる。スポーツの弊害である。そしてこの弊害はここまでにとどまらない。「見せるスポーツ」、「金の稼げるスポーツ」の存在が、こうした弊害を更に増殖させていく。

 スポーツが、「自らの健康管理のため」から、「金を稼ぐ手段」へと、まるで別種の概念を持つものへと突然変異するのである。そして「金が稼げる」という意味は、それに伴う「名誉」みたいな概念を引きずってくる。名誉と呼ばないまでも、「有名人」と言う他者の評価の中に己自身を埋没させてしまうのである。

 かくしてスポーツは、「引退宣言」みたいな環境に置かれることになる。それは、スポーツで金を稼げなくなった者の宿命になりつつある。

 引退の原因には種々あるだろう。有名性を自ら毀損するような犯罪などに関わるような場合もあるだろうし、怪我や病気などで有名性を維持できなくなるような場合もあるだろう。

 しかもスポーツには、更にその裡に正義であるとか公正などが含まれているような錯覚を人に与える。そのことは、例えば健全な精神は健康な肉体に宿るとされたり、八百長がスポーツ精神に真っ向から反しているかのように言われることからも分かる。

 そうした付与された健康とか正義の観念を前に、現実のスポーツの姿は余りにも隔絶してしまっている。果たしてそれでいいのだろうか。スポーツと呼ばれる分野は数多くある。それらの多くがオリンピック競技種目として認定されることを目的としたり、地区大会や全国大会として競技として拡散させたいなどの思惑を背景に、勝負に力点を置いた似たような方向をたどっていく。

 そんなこんなに私は、それらをスポーツと呼び、健康管理や正義などを全面に押し出していく流れに、どこか違和感が感じられてならないのである。怪我を我慢して出場したり、体を壊してまで練習に励むことが賞賛されるような風潮に、それをスポーツと呼んではいけないのではないのかとすら感じるのである。もしかしたら、とてつもない間違いなのではないかとすら思っているのである。


                                     2019.1.25        佐々木利夫


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怪我と引退