台風や地震などの自然災害をはじめ、オレオレ詐欺のような人為による危険などにいたるまで、主にメディアを通じた住民への事前警告が発せられることが多い。そんな警告が、最近は特に多くなってきているように感じる。

 そうした警告が必要な事件そのものが多くなっているのか、それともそれ以外の原因によるものなのか、必ずしも私に分かっているわけではない。それでも警告の多発は、今では日常化しているように感じられてならない。

 確かに地球温暖化に伴う気候変動などで豪雨禍などが多発している印象は避けられない。そしてそのたびに豪雨警報が発せられる。でもそれが警報多発の原因なのだろうか。それともそうした災害に見舞われる住民が、地域的に偏在していることが要因なのだろうか。

 ただ、そうした警告に共通して感じることは、自治体や国などの組織が警告対象たる住民に自己責任を押しつけているのではないかとの感触である。そんな風に感じるのは、私の身勝手な思いなのだろうか。

 警告と自己責任との関連が、分からないというのではない。むしろ良く分かるような気さえしている。大雨で堤防が決壊し、住宅への浸水が予想されるとして避難場所への移動を警告する。その警告に応じて避難するかしないかは、それを聞いた住民のまさに自己責任である。

 近くの山のがけ崩れの恐れがあるから避難せよとの警告も同様である。そうした警告があり、その警告に従うかどうかはまさに自己責任である。そこに何の異論もないし、警告そのものに対する異議もない。

 近くで強盗事件が発生したから、地域の住民に気をつけろと警告することもいいだろう。公的機関を装った特殊詐欺の電話が多発しているから気をつけろと警告することも、良く分かる。

 それでも私は、この警告にあたかも密接不離のように張り付いている、相手に対する自己責任への転嫁意識が、どうにも気になるのである。

 警告は「逃げろ」だけに限るものではない、「逃げろ、ただし逃げるのが危険と判断されるときは、そのまま自宅にとどまれ」、そんな警告も最近は増えてきている。「詐欺の電話に気をつけろ、不信な電話と感じたら○○へ電話で相談せよ」も同様である。

 そうした言葉や警告内容に疑問があるというのではない。ただ、いかにも正論を述べているにもかかわらず私にはこうした警告に、警告を発した以上災害が発生しても発信者に責任が問われることはない、そんな責任回避の意識が感じられてならないのである。

 私にはこうした発信側の思惑が、警告の増加という現象を招いているように思えてならない。少しでも危険の兆候を感じたら、とりあえず警告を出しておけ、出すことで被災した者に対する責任は我々から自治体や気象庁などから相手へと転嫁する、そんな思惑が感じられてならない。あくまで相手の自己責任なのだから、我々の責任が問われることなどない、そんな責任回避の思惑が感じられてならない。

 自己責任の場面が余りにも多発されると、自己責任そのものの意味が薄れてくる。確かに「何でもかんでも相手任せ」という風潮は、自己管理という人間本来の持っている本質に反するように思える。だからそこには自ずと兼ね合いと言うものが存するのかもしれない。

 自己責任は、基本的に人として正しい姿勢だとは思う。己に課された責任を、自らの裁量によって解決していく、それは人に求められる当たり前の姿勢なのかもしれないからである。しかしそれは、相手の責任回避と対になっている考えとは違うのではないだろうか。

 100パーセントの自己責任、そうした人間生活が誤りだとは思わない。人任せにせず、自らの責任で自らの人生を切り開いていく、それはそれで本来の人類に課された基本なのかもしれない。

 でも私たちは、社会と言う組織を作り、その中で安全や安泰を他者もしくは組織に委ねるという仕組みを構築してきたのではないだろうか。それは単に見返りとして租税を支払うというだけに止まるものではないはずである。社会の構成員は、人としてその構成する組織の設けたルールに従うということを承認したのである。

 それはそうした社会との契約であり、そうした安全な生活を社会と言う組織もまた守らなければならないことを意味している。それは組織としての義務であり、決して自己責任の警告を発することでその責務を免れることなどできないと思うのである。

 もちろんそうは言っても限度はあるだろう。だから私たちも、ある程度の自己責任を負うことは免れないと思う。でも最近の警告の多発は、社会がその責任をきちんと果たしていないことを示しているのではないか、そんな気持ちを抱かせるのである。

 災害の起きるたび国や自治体が繰りかえす発言がある。どんな場合にも政府や自治体は、「被災された方のご冥福を祈ります」、「今後の発生に備えるよう万全の努力をします」、「被災された方の救済に全力を尽くします」を繰りかえす。

 そうした言葉を私たちは何度聞いてきたことだろうか。事後の対処は必要だとは思う。だから、言ってることに嘘があるとは思わない。でも、ことが起こってからの対処だけで、全て解決するのだろうか。1000ミリの雨が降ったら川の堤防が敗れて住宅地に洪水が押し寄せる、でもそれは想定外だったので、今後気をつけます、そんなことでいいのだろうか。

 1000ミリの雨にも耐えられる堤防の設置、いやいやそんなことを私は言いたいのではない。そもそも1000ミリの雨が降らないような環境を、私たちはこれから作り上げていく必要があるのではないだろうか。特殊詐欺の起きない社会の構築が望まれているのではなだろうか。起きた事件に対処する社会ではなく、そうした事態の起こらない社会の構築こそが、社会には求められているのではないだろうか。


                    2019.10.26        佐々木利夫


             トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 

警告と自己責任