朝日新聞の社説(2019.6.17)の話しである。タイトルは「高校改革」であり、見出しとして「『個性』押し付ける矛盾」の活字が書かれていた。

 その概要は、「政府の教育再生実行会議が先月、高校改革の一環として普通化の『類型化』を提言した。」から始まり、「今は高校ごとの特色が薄く、画一的な教育が意欲をそいでいる。そこで、・・・生徒が学ぶ方向性を選択できるようにする。それが提言の趣旨だ。」と続く。

 そして「提言は一方で『文理のどちらかに偏ることなく、バランスよく資質・能力を身につけていくことが重要』とも指摘する」と提言を引用し、「ならばなおのこと、こうしした類型化には慎重であるべきだ」と続け、「進路も関心も多様な生徒たちにこたえる。そのために意義ある施策は何かを、生徒の立場に立って考えるべきだ。」と結ぶ。

 言ってることが分からないではない。つまり、個人個人の個性を大事にすることも必要だ。だから類型化、規格化方向へは慎重であるべきだとの意見だろう。それはつまり、提言の中にある『バランスよく資質・能力を身につけていくことが重要』という内容を単に繰りかえしているだけにしか過ぎないのではないだろうか。

 そこに私は、社説は単なる言葉遊びをしているに過ぎない、そんな感触を受けたのである。社説は、提言の言う「類型化」という言葉に過剰に反応し、これでは「多様な生徒たちの個性」が抹殺されると言っているだけにしか過ぎないように思えたからである。

 そんなことは当たり前の意見である。意見だとすら言えないくらい、当たり前の考えである。提言だって「類型化」を、例えば軍隊式に「右向け右」を強制しようとか、あるいは校則でスカートの丈や色や髪型を細かく規制し、違反者には罰則を課すべきだとまで言っているわけではない。

 つまるところ、現在の高校生は余りにも放任されすぎていて、目標が持てないでいる。だから、例えば学校ごとの特色なり方針みたいな方向性を見つけるようにしてはどうか、それが提言の意味なのではないだろうか。

 それは別に「個性をつぶして画一的な高校生を作り上げる」ことを意味しているわけではない。目標なり指針の持った高校生を育てたいと言っているに過ぎないと思えるからである。

 それを個性を喪失させる、脱個性化だとまで言ってしまうのは、社説の身勝手な独断ではないだろうか。「進路も関心も多様な生徒たち」の個性を尊重するということは、必ずしも放任を意味することではないと思うからである。

 ただこのように考えるとき、果たして「個性」とは何だろうとの疑問が湧いてくる。各人それぞれに個性がある、だからその個性を大切にしよう、そんな気持ちが嘘だと言いたいわけではない。ただ、人にどこまで個性と呼ばれる感性が存在しているのか、それは果たして個性として評価すべきものなのだろうかが疑問に思えてきたからである。

 「人はそれぞれが違っている」、それを「個性」と呼ぶのなら、それはそれでいい。だがしかし、それを個性と呼んでしまったら、世の中は個性だらけになってしまう。つまりそれは、「人それぞれ」、「各人各様」、「人は一人ひとり違っている」という事実を、単に言葉を違えて言っているに過ぎないように思えるのである。

 人はそれぞれ、髪の色や顔つきや血液型などなど、足や耳の形から髪のつむじの位置などまで、一人ひとり違っている。だとすれば、10億の人がいれば、そこに10億の個性があることになる。それを個性と名づけていいのだろうか。更に言うなら、そうした個性は年齢や教育や趣味などによって大きく変わってくるだろう。

 赤ん坊には赤ん坊の個性があり、青年には青年の、壮年にも老年にもそれぞれの人にそれぞれの、それなりの個性があることになる。ピアニストとしての個性、母としての個性、政治家としての、イスラム人としての、死刑囚としてのなどなど、そんな個々人の違いを、果たして個性と呼んでいいのだろうか。

 そして常に個性は尊重されるべきだとする意見が常である。「個性」とは、一人ひとりの人格が違うと言う事実の別称であるに過ぎないのではないか。その個性の持っている正邪や善悪などの、方向や性質までもが含まれているわけではないのではないだろうか。

 聖人君子のような個性もあれば、悪逆非道な個性も存在するだろう。人それぞれが異なると言うことを個性と言うなら、「人を殺したくてたまらない」のも、個性として認め尊重しなければならない。老いて足腰を動かせなくなった個性も大事なら、認知症で車の運転に固執する個性もまた尊重の対象となる。

 こんなことを言い出したのは、「個性」とは、特別に尊重の対象になるようなものではないのではないか、私にはそんな風に思えてきたからである。人がそれぞれ異なることを卑下したり、軽蔑したりするつもりはない。AさんとBさんの顔か違ったからと言って、それは「当たり前のこと」であって、そこに尊重だの卑下だのと言う言葉の入り込む余地などないと思えるからである。

 それを「個性」などと名づけてしまうから、何か特別な、そしていかにも「評価すべき宝石」がそこにあるかのように思わせる仕組みが、気に入らないのである。それを個性と呼ぶなら呼んでもいい。だからといって、それが尊重すべき宝石だとは、私にはまるで思えない、ただそれだけのことなのである。

 なぜなら個性は始めからそこに存在しているからである。優越とも卑下とも無関係に、人は他人とは違う存在として生まれてきただけだからである。個性はいつでもそこに存在しているのであり、別に光り輝いているものでも、どす黒く渦巻いているものでもないのである。だから「個性的になれ」などと脅される必要などまったくないだろう。個性は始めからそこに当たり前に存在しているものだからである。

 一人の人間にも無数とも言えるほどの個性があり、そして人間の数だけ異なる個性がある。そんな無限とも思える個性を、「個々に評価する」などとはとても言えないように思う。一人の人間に備わっている無数の個性を集合化し、その集合体を「一つの個性」、「統合された個性」として評価していいのだろうか。それを果たして「一つの個性」などと呼んでもいいものなのだろうか。

 流動し変遷し、とめどなく変化し続ける個性、それをある時点で切り取って「一つの個性」と呼ぶそのことに、私にはどこか論理が破綻しているように思えてならないのである。個性って何?、個性ってあるの?、それは本当に個性なの?・・・。


                            2019.7.4        佐々木利夫


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個性ってなに?