言葉が人間固有なものなのかどうか、必ずしも分かっているわけではない。動物にだって、それを言葉と言っていいかどうかはともかく、そのほとんどがうなり声や鳴き声などの伝達手段を持っている。多くの動物が声帯を持っているということは、その発音を「言葉」と言うように総括してしまっていいのかもしれない。

 もちろん発音は、声帯からの信号のみに限るものではない。羽根をこすり合わせて音を出す生物もいることだし、それ以外の手段で音として伝達する手法を持つ生物だっているかもしれない。また、ホタルのように光による点滅を伝達手段として利用する生物だっている。もしかしたら光信号以外にも例えば臭いとかホルモンなどの物質を伝達の手段として使っている生物だって存在しているだろう。ただそうした手法を「言葉」と認識していいのかどうか、私自身まだ良く理解できていないのでここでは省略したい。

 シジュウカラの鳴き声には、単語と文法があると説く研究者を紹介する放送があった(5.27、NHK Eテレ、ヘウレーカ「このなぜはほっとけない」より)。もしこの研究が正しいとするなら、その単語の数や文法の組み合わせ数などの複雑さはともかく、ここには言葉が存在していると言えるのかもしれない。

 それはともかく、自らの身体機能によって音を出す伝達手段として、人間は言葉を発達させてきたのだと思う。それはつまるところ音声による他者への信号伝達という意味である。

 言葉が音声による信号であることは、恐らく否定できない事実であろう。もちろん言葉以外にも伝達手段が存在していることを否定はしない。ただ、口から音声として信号を発信し、それを耳という感覚器官で受信してその意味を解読する、そういう手段を人間は言葉として発達させてきたのは事実である。

 人間はいつの頃から、声を持ち言葉を発するようになったのだろうか。化石研究などで声帯の位置や形態をさぐり、そこから発声の経緯を調べている研究者がいるという。でも残念ながらその辺の知識は私にはまだないので、それについて話すことはできない。

 かくして人は言葉を得て、それを文字に変化させることで互いの交流を発達させてきた。文字を持たない人類もいるけれど、現代はほとんどの人類が文字を持ち、もしくは他の人種の文字や言葉を借用するなどして、人は何らかの形での言葉や文字を使った伝達手段を持っている。

 ひとり言ということもあるから、言葉が自分に向けて発せられる場合のあることを否定はしない。でもそれだって、「話している自分」と「それを聞いている自分」というように、主体を分離して考えることができるなら、ひとり言もまた他者との交流を前提に発達してきたと考えることは可能である。

 そうした言葉が、最近伝わり方が軽くなってきたような気がしている。つまり、言葉の力というか、言葉が持っている伝達力ともいうべき力が、弱体化していっているような気がしてならないのである。

 言葉を他者に伝える手段だと考えていることについては前段で述べてきた。その他者に伝える力が、どことなく軽くなってきているように思えるのである。

 もちろんそれは言葉だけの責任ではないのかもしれない。言葉に対する要求水準というか期待値が、言葉の持つ力以上に高まっているからだとも考えられるからである。本来持っている力以上の能力を言葉に求められているのだとしたらそれは言葉の責任ではなく、単なる過度な要求ということになるだろうからである。

 言葉にどこまで伝達できる能力があるのか、どこまでその力に期待していいのか、その辺のことは必ずしも私が理解しているわけではない。単純に考えたところで、外国語にまるで無知な私に対して、英語やフランス語で話しかけられたとしても、そこに伝達力を求めた考えたりすること自体ナンセンスだろうからである。

 またたとえ日本語で話しかけられたとしても、詩人の訴えと政治家の訴えとでは、同じ内容を言わんとしているとしても、伝わり方が違ってくるようにも思える。ヒトラーの演説に熱狂したドイツ国民がいて、市会議員候補者の街頭演説のマイクの前を、無関心に平然と通り過ぎる私がいる。同じ言葉で話しているのに、どこが違うのだろう。

 一方でフェイクニュースと言われるように、「嘘の情報」がインターネットを炎上と言われるほどにも大量に駆け巡る。そしてそのまま、ある言葉を「まずは疑ってかかれ」みたいな風潮が世間に流れてくる。

 だとするなら、「信じよ」も「信じるな」も現代では共に両立する思いなのだろうか。両立するからこそ、それぞれの効果が相殺されて、「信じる」ことも、「信じない」ことも、共にその力が弱くなっているのだろうか。

 それとも、言葉の伝達力が弱くなってきていると感じるのは、言葉そのものの力の強弱というのではなく、言葉という存在に対する私たちの信頼の強弱がそう思わせているのだろうか。

 これまで言葉について書いてきた。書いているうちに、果たしてこれが言葉の問題なのか疑問になってきた。もしかしたら「弱くなってきた」のは言葉だけではないのかもしれない。私たちをめぐるあらゆることどもが、その訴える力を弱めてきているのかもしれない。

 政治も科学も、倫理も犯罪も、なんなら神も宇宙の摂理さえも、その「訴えかける力」を弱めていっているのかもしれない。そしてその背景には、どこからか聞こえてくる「何も信じるな」の声があるような気がしてきいる。それは、「私が信じない」との思いを超えて、「皆が信じない」、「誰もが信じない」そんな風潮(伝染病・思い込み・確信・麻痺)にまで拡散していっているような気がする。

 それでも人が人を信じられない社会の拡大は、どこか悲しい。「信じられないのが当たり前なのだ」と理解することも可能ではあると思う。しかし、他者を信じられないこと、もしくは隣人を信じられないことは、私たちが社会という組織を作り上げている基礎となる材料を失いつつあることと同義であるような気がする。もちろん、言葉だけが材料のすべてだとは思わないけれど・・・。


                               2019.4.27        佐々木利夫


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言葉の持つ力