人は他者と集団で暮らしているのだから、どうしたって他者を意識しない生活することなど、そもそも不可能だろうと思う。そしてそうした意識は、必ずしも「自分を客観的に評価してもらうため」という範囲に納まるものではなく、僅かにもしろ「実力以上の評価をしてもらいたい」との気持ちを心のどこかで求めているのかもしれない。

 そうした意味では化粧や試験や日常生活だって、どこかで背伸びしたい自分がそこに存在しているのかもしれない。だから、そうした背伸び自体を批判したいとは思はない。人間としてごく当たり前の意識であり行動だとも思っている。

 ひと月ほど前、こんな記事が新聞に載った。スマホの写真を利用して、農業生産者と飲食店を結ぶ流通システムを開発した、ある法人の代表者を紹介した特集記事であった(2019.2.23、朝日新聞、「流通改革で農業生産者を支える」)。

 そこに掲載された代表者を紹介する写真の説明文に、こんな一言が添えられていた。

 「撮影直前、霧を吹きかけたりして、野菜がみずみずしく見える工夫を欠かさない。『しおれて見えたら、心を込めて作ってくれた生産者さんに申し訳ない』

 ごく当たり前の行為だろうと思うし、だれでもやる行為だとも思った。もし私が同じ立場にいたとしたら、同じようなことをしたと思う。

 それでもこの添えられた一言が、なぜか気になってしまったのである。どうってことのない当たり前に見える行為に、どこか私のへそ曲がりのアンテナが反応してしまったのである。

 それは、この「みずみずしく見える工夫」という言葉が、実は「みずみずしくない野菜を、みずみずしく見せる工夫」なのではないかと思えたからである。そしてこの工夫は、「みずみずしくない野菜を、あたかもみずみずしいかのように購入者に錯覚させる行為」のように思えたのである。

 スマホで撮影した画像の解像度や、性能の程度を私はしらない。「私は写真写りがよくない」と自称する人もいるくらいだから、どんなに工夫してもスマホでは「野菜の本物感」、つまりその新鮮さを表現するのは難しいのかもしれない。また撮影のためにライトを当てるなどの作業のために、野菜本来の新鮮さがその場で失われてしまうのかもしれない。

 つまり、スマホで写真をとって飲食店に紹介し、購入してもらうのが目的であるにもかかわらず、その撮影された写真が「写真」ではない、つまり目の前にある本物の野菜という真実を反映していない、のかもしれない。それでも、その野菜に霧を噴きかけてみずみずしく見せるという行為は一種の作為であり、被写体たる野菜そのものの実体を反映していないことになるのではないかと思えのである。

 霧を吹きかけることで、被写体を「みずみずしく見せよう」とする行為を、特に否定しようとは思わない。それでもそうした行為、つまり作為よって被写体を新鮮らしく見せる作業はこっそりと行うべきであって、少なくとも作為者本人が、新聞という機関を利用して不特定多数に向かって公表するようなことではないように思えてならないのである。

 「霧を吹きかける」という事実を公表することで、「みずみずしく見える野菜」が実は「みずみずしくない野菜である」ことを自ら認めたことになるのではないだろうか。つまり、「みずみずしく見える写真は、作為による虚偽である」ことを自認したことになるように思えたのである。

 そしてこんな行為はひっそりとした何気なさの中に、それとなく隠されていてこそ意味があるのではないのかと思えたのである。白日の下にさらすことによって、「みずみずしく見せよう」とした意図が、とたんに薄汚れたものになってしまう、そんな気のした新聞記事であった。


                               2019.3.21        佐々木利夫


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見せる工夫