○ 剣で滅びる  2019.5.4

 「剣をとる者は・・・」(朝日新聞 折々の言葉)。いかにも尤もらしい言葉だ。同じ意味で「暴力で・・・」、「金で身を立てる・・・」、「言葉の力・・・」を挙げる。何を言いたいのだろう。どんなことでも、「それで滅びる」ことはあるのではないか。「努力する者は努力で滅びる」人だっていたはずだし、勉強だって、ボランティアだって、何なら「寄付」だって同じである。「親切」にしたところで「小さな親切大きなお世話」と言われることもある。


 「剣で滅びる」と言いたいのは、「剣」を無条件に悪だとみなし、「剣のない」世界を理想と考えているのかもしれない。つまり「悪は自滅する」ことを言いたいのだろう。でも「自力で滅びる」のは、何も悪だけに限るものではないような気がする。私がこのメモを残したのは、この辺に原因があるのかもしれない。

 ○ 憎悪と批判  2019.7.29

 「トランプ大統領が非白人女性議員4人に対して『元の国に帰ったら・・・』とツイッターに投稿したことに関連して安倍総理大臣が『憎悪からは何も生まれない』と選挙の応援演説で語ったらしい。その発言に結びつけ、結局安倍発言こそ反対者への憎悪が根底にあるのではないか」とする新聞投書があった(朝日新聞)。
 しかし、憎悪と批判とは、受け取る側の「思い」に対する評価なのではないか?」。


 
立場が違うと評価が異なる、こんなことをこの投書から私は感じたのだろうか。そうした思いを突き詰めていくと、結局私の意見も一つの評価ということになり、「みんなそれぞれだもんね」という、結論なき結論が見えてきて、エッセイとして完成しなかったのだろうか。

 ○ 老いという個性  2019.6.17

 「当時74際の父の運転免許を、長女の私が取り上げた。・・・高齢者ドライバーが運転をやめられない理由は多々あると思うが、周囲の子供たちや孫、親戚の人たちがもっと彼らに関心を持ち、心配をし、運転を『卒業』させる行動を起こすべきだと思う」(2019.6.17、朝日新聞、投書)
 「老い」も一つの個性なのだろうか。+アルファが必要だ。普遍的な価値観、道徳と言ってもいいかもしれない。そんなものが存在し、それに個々人の個性をぶつけると「正しい個性」、「望ましい個性」というのが○○できる。でも、そんなモーゼの十戒があるのだろうか。


 ○○には漢字らしきものが書かれているのだか、乱筆のせいで解読できない。タイトルの「老いという個性」という語は格好がいいとは思うけれど、私はここで何を言いたかったのだろうか。

 ○ 提言なき感想  2019.5.17

 「研究不正 事実と虚構 壁が溶けたか」 「・・・報道によれば、○○女学院の院長の著書に関して、そこで引用されている文献等の存在確認できないとの疑惑が、他の研究者から寄せられた。・・・学内に委員会が設置され、・・・彼の著書や論文に捏造や盗用があったことが認定されたのだ。・・・しかし、・・・なぜ容易にに露見しうるような不正手をそめたのか。どうにも理解しがたい。・・・いつの間にか事実と虚構を隔てる壁が溶け落ちてしまったのだろうか。・・・」(2019.5.17、朝日新聞、客員論説委員、1967年生まれ)。

 この投稿を読んだ。谷崎潤一郎の「春琴抄」の話が長々と続き、テーマとの関連が分からなかった。しばらくして、東洋学院の院長論文で引用された文献が存在しないとの不正が語られた。そして論文不正の原因として縷々語る。そこでこの投稿者は「しかし今回のケースは、そのどれにも当てはまらない」としたのには唖然としてしまった。・・・


 私はこの投稿で何を感じたのだろうか。読み直しても、どの部分にどんな感触を得てエツセイにしようとしたのか、今になっても分からない。だからこそエッセイにならなかったのだろうけれど、それでもけっこう長文のメモがここにある。何を感じたのか、そこのところがきちんとメモされていないことに、「感じたであろう何か」をつかみきれないもどかしさを抱きつつ、そのことがどことなくいとおしい。

 ○ 死ぬ気でやれ  日付不詳

 迷っていたり、気落ちしていたりしている仲間や家族に向かって、時にこんなことを言う。励ましているつもりではあるのだが、本当にそうなのだろうか。また、自分に向かってときにも、この言葉を口の中で呟くことがある。「死ぬ気で頑張る」と「適当にやっとけばいい」の違いはどこにあるのだろうか。

 
「死ぬ気でやれ」は、結局その言葉だけで完結してしまうのかもしれない。そして無意味なのかもしれない。そもそも、「死ぬ気」そのものの意味が不明確である。

 ○ 「語り部」を自称することの気恥ずかしさ   日付不詳

 タイトルだけで、内容は何にも書いていない。原爆や津波などの災害経験者や交通事故の遺族、個人的な歴史研究家などなど、世に語り部を自称する者は多い。「語り部」という言葉には、「経験者としての思いを、自らの言葉で周囲に伝える」、そんな意味が含まれているのだろう。そのことが分からないではない。それでも私は、この「語り部を自称する」そのことに、どことなく気恥ずかしさを感じてしまうのである。

 ○ 見ること、見られること  2013.4.17

 「・・・それらは、見ること、見られること」に対して、徹底的に無関心だ」(写真家 畠山直哉の言葉。最相葉月 なんといふ空、p190から孫引き)。


 こ
のタイトルの語に惹かれたのではないような気がする。恐らく言葉そのもののフィーリングと言うか韻に惹かれて、このメモを残したのだろう。今読み返しても気になる言葉ではあるものの、そこからエッセイにまで引き上げるだけの力が、まだ私には不足なようだ。


                    2019.12.6        佐々木利夫


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メモの始末(1)

書きかけのメモが溜まってきた。
エッセイにまでは成長しなかったが、
それでも私の大切な作品である。
水子として供養するのも年末の
大切な仕事の一つなのかもしれない。