黙祷の起源 2018.11.末
11.17、トルコで開かれたG20サミットに、各国の首相が集まった。その場で11.14にフランスで起きたテロ行為によって殺された129名の死に、黙祷が捧げられた。
そしてふと思った。黙祷ってのは、全世界共通のしきたりだろうか。いつ始まったのだろうか。
黙祷とは祈りの一種だろう。目を閉じて死者の冥福を祈るこの儀式は、一人ではやらないのではないだろうか。仮に私がたった一人で、棺の前で目を閉じて死者への思いを抱いたとしても、それを「黙祷」とは言わないのではないだろうか。「黙祷」とは、いつの場合も「集団の儀式」、「複数人による一斉の行為」であることが求められているような気がする。そもそも日本に「黙祷」という習慣があったのだろうか。そんなあたりに私の興味があったような気がする。
○ 真摯に受け止める 2019.2.26
沖縄の辺野古地区の埋め立てへの反対を示す住民投票が2.24、県民投票という形で示された。投票者の70%が反対票を投じた。その投票に対する政府の見解が、「投票の結果を真摯に受け止める」だった。そしてその言葉に呼応するように、「普天間飛行場の全面返還の実現に向けて全力で取り組む」とも語った。
高卒で国家公務員試験を受けて税務職員になった。最初の一年間は、税務講習所での税法を中心とした様々な法律を学ぶ全寮研修であった。そのときに始めて「行政法」という分野を知った。別にそんな名の法律があるわけではない。行政が発揮する様々な権能を学ぶものであった。その中に「行政の執行不停止」であるとか、「行政代執行」などがあった。行政には相手に不服があっても、独自にその目的を果たすことの出来る権限があることを知った。
県民投票や国民投票が、行政の行為を阻止することはできないことは分かっている。それでも県民の多くが反対している「沖縄での一つの行政執行」が、無視されたまま執行が続くことに違和感が残る。しかも、「真摯に受け止めた」上での、無視である。
○ 人手不足か国民不足か 2019.2.24
「本当は人手不足というよりも」(2019.2.24 朝日新聞、日曜に想う)
「人手不足」。だからだから入管法を改正して外国人をもっと受け入れる必要があるとされた。・・・人手が足りないのは、国民が減っている上にどんどん高齢化し、若い人が急速に少なくなっているからだ。
この意見に賛成したい。入管法の改正は、労働力を外国から受け入れると言うよりは、安い労働力、人の嫌がる労働環境への供給を、日本人ではなく外国人に求めているように感じられるからだ。言葉としては間違いだと思うけれど、どこかで黒人奴隷をアフリカから捕獲して開拓に従事させた、かつてのアメリカの再現のような臭いがする。
○ 多様化とわがまま 時期不詳
多様化する日本とか、多様化する世界なんて言うと、しごく格好のいい表現に聞こえる。だが、多様化とは何だろう。社会とか国家とか、そうした集団のことを言うのだろうか。
それともそれとも、個々人の多様化が組織の多様化へつながることを言いたいのではないか。そしてそして、多様化って「わがまま」、「偏見」、「好き勝手」、「思い込みの身勝手さ」などど、どこが違うのだろうか。
多様化についてはこれまで何度もここで触れた。勝手に保護すべきと決めた多様化にばかり目を向け、強かったり排斥すべき様々には頭から多様化に含めないとする社会の方向に、私はどこか変だと思うのである。多様化とは全てを含めることで成立するセオリーではないか。それとも含める基準が、最初からあるのだろうか。その場合その基準は誰が決めるのだろうか。
○ 言葉の力 2019
言葉の力が軽くなり、思いを伝える手段も軽くなっていく。他者への訴えが軽くなっていく反面、要求水準だけが独善的に高くなってきている。「自分だけを守ること」にものすごくこだわるようになってきている。
「伝えられなくなっている」(伝わる力が弱くなってきている)のが、現代なのだろうか。戦勝祝いに日本中がちょうちん行列をしたことも怖いけれど、ニュースやSNSでのフェイク(嘘)が社会に蔓延して、「皆が何もしない」社会も怖いものがある。
これもまた、多様性の一形態なのだろうか。そう考えてくると、多様化もまた得体の知れない妖怪と化していく。
○ 障害児の就学 2019.2.13
「傷害者の就学を考える」という新聞社からの問いかけがあり、それに呼応した読者からの投書4通で構成された記事があった(2019.2.13、朝日新聞 「どう思います」)。その問いかけの中に「障害と一口に言ってもその種類や障害の重さ、子どもの個性も様々です」と、問題を整理していた。
回答者というか投書者は4人、「幼稚園に加配 優しく支えられ」、「級友と同じ名簿順にしてほしい」、「教師の考え方次第で変わる教室」、「『健常者が我慢』違うのでは」と答える。
でもこの4人は、投げかけられたことに誰も答えていない。「程度の罠」と言ってしまえばそれまでかもしれないが、せっかく「障害も子どもも様々です・・・」と投げかけられているにもかかわらず、回答者はそれぞれが「様々の中の特定の一人」について、自分だけの意見しか言っていない。
様々な程度を持つ障害者を、全体としてどのように支えていくか、こうしたテーマを個々人の意見から導き出すのは難しいのかもしれない。「個」としての問題点を複数の障害に拡張していくのは、結局行政であるとか、施設と言った組織に負わされた課題なのだろうか。
○ AIは知能なのか 2019
AIを人工知能と呼ぶ習慣は、現代では当たり前のようである。私も、人間の知能(思考、判断、ひらめはなどなど)は頭脳の指令によるものであり、頭脳は細胞という一種の物質のかたまりとそれらを結ぶ連絡通路の組み合わせでできていることを根拠にするものであった。
だが、人間の仕組みについて様々な情報を得ていくうちに、「脳がすべてではない」ことが次第に分かってくる。脳がある程度重要なウエイトを占めることは分かるが、いわゆる「脳がすべて」と考えるのは誤りだと思うようになっててきた。
だとするなら、「脳細胞を人工化する」→「AIの発達」と言うように考えるのは、誤りなのではないかと考えるようになってきた。
AIがあらゆる分野へと浸透してきている。ただそれを「知能」であるとか「頭脳」などと呼ぶのは、どこか違うような気がしている。電卓が人間の演算速度をはるかに超えたところで、それを頭脳とは呼ばないだろう。AIもまた、一つのマシン機能として理解すべきなのかもしれない。
2019.12.7 佐々木利夫
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