少し古い話になるが、三ヶ月ほど前の新聞にこんな投書が出ていた。「目を見て話す習慣づけを」「・・・私は外資系企業で働いた約30年間、国籍を問わず、社員は会議では発言者を凝視することで参加意思を表していた。・・・文化の違いもあるだろう。だが、重要な対話で視線をそらしたままでは誠実さに欠け、場合によっては誤解を生む。・・・」(2019.6.4、朝日新聞、63歳会社員、北海道)。

 グローバル化していく社会にあって、こうした傾向はこれからも続いていくのだろうか。私は、「目を見て話す」ことがいかにも正論だとする彼の主張が、間違っていると言いたいのではない。それでも、そうした意見は余りにも一方的な決め付けではないかと、私の曲がったへそが反応したのである。

 なぜなら、私たちは視線をそらして会話することの中に、相手への思いやりを含めてきたのだと思う。直截的な結論をやんわりと包み込む婉曲的な対人関係は、長い歴史をかけた日本の文化の中で熟成させてきた知恵が詰まっているのではないかと思っている。

 直裁を避け婉曲を好む日本人の習性は、私たちが歴史の中で育ててきた知恵である。それは、ビジネスライクな商談には向いていない場合があるかもしれない。でも、そうした習性が互いの円滑な付き合いの中では必要だと感じた思いが、習慣として残してきたものである。そしてそれが必要な習慣として定着していった結果として今があるのではないだろうか。

 人と人との会話とは、必ずしも同調だけが前提となるものではない。意見の違い、損得への思惑、好悪や価値観の違いなどなど、人はそれぞれに異なる人格を持ち意見を持っている。

 そうした者同士が会話し、そこにコミュニケーションを持とうとするとき、互いが自分の意志だけを主張しているだけでは会話どころか協調も成立しないだろう。そうしたとき、成立しないままで会話を終えることも、一つの選択肢ではある。

 ただそうした選択は対立を残すのみで、共同の意見や互いの親睦と言う意味では必ずしも目的を果たしているとは言えない。対立のままでは、互いにしこり残し共通した意見の成立など困難になるからである。

 こうした場合の解決にはいくつかの手段があるだろう。例えば説得である。相手が納得するまで、説得を続けることである。相手がこちらの言い分を、「分かった」、「その通りである」、「なるほど」と理解するまで、説得を続けることである。

 しかし、そこまできちんと説得できるかどうかは疑問である。できなければ、結論がでないことになってしまう。結論がでないと言うことは、対立のままで議論を打ち切ることである。逆に言うと、説得を諦めるということでもある。

 それでいい場合もあるだろう。ある小説を「面白い」と思う人がいたところで、「それほど面白くない」と思う人を無理やり説得しなくとも世の中は回っていくからである。食べ物の好悪、スポーツへの興味、その他様々な趣味や研究などなど、世の中に他人から説得されたくないと思える様々は、溢れるほど存在している。

 仮にその人にとっては絶対に信ずべきだと思える宗教であっても、他人にはまるで興味がない場合だってあるだろう。そうした時にその人が、とことん相手を説得したいと考えたとしたらどうだろうか。その人にとってその宗教は、必ず相手も信ずべき絶対的な正義であり義務だとまで感じていたとしたならどうだろうか。

 説得しても説得しても、相手はこちらの説得に応じようとはしない。ならば目を見て説得してはどうだろうか。それでも応じないなら、権力を使って説得してはどうだろうか。それでもダメなら、銃を突きつけて説得してみることはどうだろうか。

 私たちは多くの場合、そうした手段をとることなどないだろう。でも、暴力にまで至らなくとも、例えば地域や会社の身分関係、または家族内の上下関係などを利用した権力による強制は十分に考えられる。

 それとも、それぞれの思いを互いに尊重することが、現代社会を生きていく私たちの大きなそして必要な知恵であり生きていく手段だと考えるべきだろうか。相容れない互いの主張は、その主張が強硬であればあるだけ激しい対立を生み、場合によっては紛争にまで発展してしまう。

 そうした時に、自らの主張をぎすぎすさせない手段として、私たちは「相手の目を見ない」という、間接的な対話を発明したのである。それが究極的かつ万能な手段だとは思わない。単に目を逸らすことだけで、相手との対立が避けられるとは思わない。

 でも私たちはそうした手法を発明し、それで生延びてきたのだと思う。選択には常にロスが伴うとも思う。婉曲的な対話をすることで争いを避けると言う選択は、「はっきりしない」、「自らの立ち位置を示さない」などのロスと言うか副作用・弊害を生む場合もあるとは思う。

 それでも「目を見て話す」ことから距離を置き、「目をそらして話す」と言う手法の発見は、私たちが発明したとても貴重でコミュニケーション手段の一つなのだと思う。それは必ずしも万能薬ではないかもしれない。

 私たちが、空や山や石ころや草木などあらゆる万物に「神」を見出してきたのも、私たちの「自らの立ち位置をはっきりさせない」考え方が、基本にあったからなのではないだろうか。「はっきりしない」ことは、物事を「あいまい」にする。でもそれが「はっきりさせる」ことより、必ずしも悪い選択だとは思えない。

 私たちはそうして生きてきたのである。それが私たちの生き方だったのである。争いを避け、曖昧さの中に平穏を見つけだすことが私たちの選択であり、生きる術だったのである。

 だからそれはそれで、いいのだと思う。「目を見て話さない」ことを恥だと感じたり、間違いだと思う必要などまるでないと思うのである。むしろ誇ってもいい、私たちの選択だったのである。


                    2019.9.7        佐々木利夫


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