「無人島に一冊」、よく聞く話である。もし無人島に一人で漂着したとき、一冊だけ許されるとしたらどんな本を選びますか、そんな問いかけである。こうした話題は、人生最後の晩餐に何を食べたいかなどに変化する場合もある。

 ついつい、「そうだな、私ならこんな本を持っていきたい」と思いがちである。そんな思いがちに、私の曲がったへそが反応したのである。こうした質問自体に、どこか変な気がしたからである。

 本に目が向いてしまうと、あれこれ題名が浮かぶことだろう。私がこのタイトルに触れたのは、親鸞の記した「歎異抄」を宣伝する広告を、朝日新聞の「サンヤツ」(新聞一面下段にある書籍の宣伝に特化した広告欄)で読んだからである。

 恐らく人により聖書を選んだり、源氏物語のような古典を選んだりなど様々であろう。出てくる書名は多様だとは思うけれど、恐らく漫画とかエロ本などは少なく、宗教書、哲学書、著名な古典などに偏るような気がする。

 まあ、それは本当に無人島に持っていって読みたいというよりは、そんな本を選んだと言うことを他人に知らせたり、自分を納得させたいと言うのが本音だとは思うけれど・・・。

 でも考えても欲しい。そこは無人島なのである。誰とも連絡の付けようがない孤立無援、たった一人の絶海の孤島なのである。

 だからこそ、本を読む時間だけはたっぷりある、と質問者は言いたいのかもしれない。だがその点にこそ、根本的な矛盾があるように私には思える。

 時間さえあればどんな環境でも読書は可能か、まさにその点が問われていると思うのである。絶海の孤島でのたった一人である。時間だけはまさにたっぷりとあるだろう。だが、あるのは時間だけである。たっぷりあると言えば潤沢に聞こえるけれど、「時間しかない」のであり、「時間以外、何一つない」のが漂着のスタートなのである。

 人の生活に欠かせないものは、何だろうか。衣食足りて礼節を知るなんぞと知ったかぶりをするつもりはないが、まず生きていく基本は「衣食住」になるだろう。人間らしいゆとりとか、安定とか、教養などが人間として大切だとは思う。でも、それは生きられることが安定してからの話である。

 何が第一かは、その漂着した孤島の環境にもよるだろう。飛行機の不時着などで、そこが北極圏内の島の一つだとするなら、第一に対処すべきは寒さ対策である。着るものや夜を過ごすための洞窟や雪中窟の発見などが急務となる。食べることよりも、凍えない方法の発見が何にも増して必要である。本など読んでいる暇はない。

 住環境の整備は、何も北極圏だけに限るものではない。赤道直下の孤島でも、凍え死ぬほどの緊急性はないかもしれないが、風雨や外敵から身を守るための「凌げる場所」の確保は何にも増して必要となる。

 住まいが確保できたら、次は食料と水である。その島に食べられるものがあるか、飲料水は確保できるか、が次なる課題である。それなくしては、生き延びることそのものが不可能だからである。絵に描いた餅で、空腹は癒せない。水さえあれば一週間は生き延びられると聞いたことがある。と言うことは、水がなければ一週間で死ぬのである。仮に死ぬとしても、それまでの一週間を読書で過ごす、そんなことを私なら絶対にしないし、できない。

 当てのない救助を空想するだけの、孤島での一人だけの毎日である。恐らくその生活は苛酷なものになるだろう。風雨を避けての水と食えるもの探しに必死の生活が、延々と続くのである。

 そして残るは孤独との戦いである。仮に生延びる術が得られたとしても、孤独には対処できないだろう。人は様々だとは思うけれど、私たちは「群れる」ことで日常を過ごしている。その群れを部落と呼ぶか社会と呼ぶか、はたまた国家であるとか会社や家族などと名づけるかはともかく、人は群れなしには生きて行けない動物なのである。

 最近、40歳台、50歳台まで続いていると言われている、いわゆる「引きこもり」の存在がある。だが引きこもりだって、一人だけで生活できているわけではない。インターネットやゲームなどに囲まれ、食事は親からの支援かコンビニを利用している。テレビも明かりもいつも傍らに存在しているのだから、結局親の金銭的な援助を背景に、群れに依存して生きているのである。

 つまり本人がどう思おうと、「群れに依存する」ことを前提に「引きこもり」は成立しているのである。そして引きこもり以外のすべての人間もまた、「群れ」と関わることの中に、自らの一切を委ねているのである。

 他者のいないところには、感情すら存在しないのかもしれない。嬉しい、悲しい、怒り、淋しい、愛しい、楽しいなどなど、人は他者との関係を前提に日常を送っていると思う。

 そうしたとき、「本を読む」行為もまた、他者との関わりの中にある。「本」そのものを他者と理解することは可能かもしれない。また本を社会とみなして、そこにつながっていると考えることも理論的には可能かもしれない。

 でもそんな孤独・孤立の中で、人は「本を読む気」になれるだろうか。表現として適切でないかもしれないが、「読書」とは一種の暇つぶしであるような気がしている。生活の中に含まれるゆとりを使った時間つぶし、そんなところに、読書の存在価値と言うか位置づけがあるのでないだろうか。

 暖かい部屋、ともかく食っていけるだけの環境、安全が保証された生活、穏やかな群れや家族の存在、こうした生活が明日も続くだろうことへの信頼、そうした平穏で当たり前の生活があってこそ、読書と言う存在が許されるのではないだろうか。そしてそうした諸々の豊かさに裏打ちされた結果として、「私の選んだ一冊」が成立するのではないかと思う。

 絶海の孤島に一人で残される、それは餓死も含めた「自らの死」との直接的な対峙を意味する。それがもし私だったとしたら、私はそんな時間を使って本など読む気にはならない。本が大好きな私ではあるけれど、その本は燃料としてバッタや蛇を煮炊きするための燃料にしてしまうだろう。それは、もう本ではない。紙の集まりであり単なる燃える物でしかない。


                    2019.12.20        佐々木利夫


             トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 

無人島に一冊