こんな新聞投書を読んだ。
「
名もなき猫の死に考えたこと」(2019.3.1、朝日新聞、千葉県、大学生21歳、女性)
「
私が歩く道の反対側に、のたうちまわる何かが見えた。猫だった。慌てて近づくと、動かなくなり死んでしまった。怖くて誰かにすがりたかったが、・・・黙って通り過ぎる男の人、『やだー』と言って・・・避難する女の人。皆が猫を無視したように感じた。私は市に電話した。・・・『清掃課が回収します』と伝えられた。あの猫の死に『社会の縮図』を見た気がした。・・・・」
彼女の行動が変だとか、おかしいと思ったわけではない。むしろ、「私も彼女と同じ行動をとったかも知れない」と理解しつつ、そうした思いとは別に逆に彼女の行動の方に、彼女の言う「社会の縮図」を感じてしまったのである。
それは、彼女が少しも自身の手を汚していないように思えたからである。確かに猫の死骸を見た彼女は、自分の携帯電話を取り出して市役所に電話したのだろう。黙って通り過ぎたり、逃げたしたりしたのとは違うとは思う。
それでも彼女の行為は、市役所に「猫の死骸がある」と報告しただけのことである。もちろん無関心を装って通り過ぎた人たちに比べて、一味違う行動をとったことは分かる。そのことを「何にもしなかった人たち」と同視したいとは思わない。
それにもかかわらず私は、彼女の行動が「猫の死骸から逃げ出したり、無視して通り過ぎた人たちとどれほど違いがあるのだろうか」と思ってしまったのである。目くそ鼻くそを笑うの類ではないか、五十歩百歩の違いではないかと思ってしまったのである。
もちろん目くそと鼻くそは成分も意味も効果も違うかもしれない。五十歩と百歩とでは少なくとも五十歩の違いがあるではないかと言われれば、それはそうだと承認しなければならないと思う。100メートル競走とマラソンとでは、五十歩の違いに対する評価も異なることだろう。
私は彼女の行動に二つの違和感を覚えたのである。
一つは、「行為の軽重」である。
彼女は先に掲げた投稿に、「・・・
私たちは日々の報道を見て、苦しんでいる人たちを可哀想と思う。けれど、そこから何か自分にできることをしようとする人は少ない気がする。人は何か理由をつけて自分を最優先してしまいがちだけど、それだけではやはり寂しい。・・・私ももっと『大丈夫?』と声をかけられるようになりたいと思う。名もなき猫ちゃん、どうか安らかにお眠りください」と思いを続ける。
彼女は猫の死骸を巡る周りの人たちの行動に、前段で「社会の縮図を見た」と感じ、そして後段では市役所に電話した自らの行動に、「私はそうではない」と位置づけ、「自分(のそこから逃げ出したいとする気持ち)を最優先したのではない」、「寂しい人間ではない」と評価しているのである。
彼女の行動は「市役所に電話しただけ」である。その行動に、どこまで「社会の縮図に流されない自分」を感じてしまうだけの重さがあると思ってもいいのだろうか。それは単なる自己満足に過ぎないのではないだろうか。そうした思いに対して、どこまで「身勝手にスルーしてしまうような人と私は違うのだ」と自分を位置づけてしまっていいのだろうか。
そして極め付きは最期の一言「名もなき猫ちゃん、どうか安らかに・・・」である。ここで彼女はすっかり舞い上がってしまっている。私はなんと優しくいたわりのある女性なんだろう、善意に満ち慈愛に溢れた人物なのだろう・・・、そうした高みに置いた自分に彼女は酔っている。自分で自分を称賛しているのである。
重ねて言う。私は彼女の行動を批判したいのではない。それでも、こんな程度の軽い行動に自画自賛してしまっている彼女の思いが、どこかしっくりこないのである。善意とか奉仕とかいたわりというのは、もっと重たいものなのではないだろうかと思えてならないのである。
そしてもう一つの違和感は、「市役所の対応」である。
私たちは猫の死骸の後始末というようなことにまで、いつから公共機関を利用するようになってしまったのだろうか。そして当然視するようになってしまったのだろうか。「なんでもかんでも面倒見てくれる」、そんな都合のいい社会をいつから作り上げてしまったのだろうか。
「誰かがなんとかしてくれる」、そんな便利な社会の構造に、いつの間にか私たちはすっかり慣れてしまった。「自らの手を汚す」という選択肢そのものが、私たちの社会からいつの間にか消えていったような気がしてならない。
そんな変化に、私たちはすっかり埋没してしまっている。不都合なことはすべて他人に押し付けて、それでよしとする世の中の構築である。変化そのものを変化と感じられないくらいのぬるま湯の中で、私たちは知らずに茹で上がろうとしている。それが、私たちの行く末や社会の望ましい姿なのだろうか、それが人生の目的なのだろうか、望ましい人類の未来のあり方なのだろうか。それでいいのだろうか・・・。
私は彼女の行動にそれほどの違和感を覚えるものではない。同じ立場に立ったとき、私ならどうするかを問いかけてみると、携帯電話も持たないこの身なら、恐らく無視して通り過ぎてしまうのではないかとも思う。
それでも彼女のとった行動に、とても優しい女性だったのではないかと思う反面、人の優しさというのは現代ではこの程度のことでしかないのだろうかと、そんな気持ちも抱いてしまったのである。
こんな程度の話題に彼女が投書を書き、それを新聞社が取り上げ、それを私が更に取り上げてこうしてへそ曲がり論を展開している事実に、そこまで社会が軽くなってしまっているように思えてならなかったのである。
2019.3.8
佐々木利夫
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