このタイトルは、私の言葉でも意気込みでもない。間もなく79歳になろうとする私だが、そしてとりあえずは税理士として、自宅から二駅離れた地区に事務所を持っている現役である。90歳というと大雑把に言ってあと10年間ある。だとすると、まさに私の覚悟のように聞こえるけれど、そこまでの意識を私が持っているわけではない。

 この言葉は、新聞に投稿された高校生の思いである。彼はこんな風に自分の将来を思い描く。「・・・定年後の落ち着いた生活も悪くないかもしれないが、自分は90歳になっても、忙しく誰かのために頑張る生活を送っていたい。・・・人生100年時代、忙しい毎日に慌てつつも楽しむことに憧れている・・・」(2019.1.12、朝日新聞、読者の声、16歳高校生、神奈川県)。

 私は彼の言葉に反論したいのではない。彼の思いが間違っていると言いたいのでもない。彼の思いが羨ましかったのである。90歳まで元気で生きるとの意気込みが羨ましかったのである。そしてその10歳前の年齢になっている我が身に、思わず対比させてしまったのである。

 若者の思いを錯覚だと言うことはたやすい。16歳の若者は、年を重ねることの意味を知らない。いつまでも16歳のままでいると思っているわけではないだろうが、平均的にしろ人は老いて動けなくなるという現実を彼は知らない。

 病気の老人がいることも、杖をついて電車に乗り込んでくる老人に席を譲ったことも、彼は経験していることだろう。そうした現実を知らないというのではない。そんな老人の存在は、現実の存在としてこの少年も理解しているはずである。

 だがその現実を、自らの将来に重ねる術を彼は知らない。イランやイラクで飢餓の難民が多数いることは知っているだろう。難民の中には年端も行かない少年や少女や赤ん坊がいることも、知識としては知っているはずである。それでもそうした現実を知っていることと、自らが空腹であり飢餓にあることとは結びつかない。

 だからと言って、彼の思いが荒唐無稽だと主張したいのではない。ただ、人は他者を自らに重ねることがとても難しいことを言いたかったのである。

 彼の思いは、一種の「驕り」だとは思う。恐らく彼の中では、「自分だけでなく、人は健康管理などの努力さえするなら、90歳まで元気で働ける」との思いが無意識にあるのだろう。

 だが現実は、90歳まで元気で働ける人は例外なのである。彼は16歳の男性である。男性の平均寿命は、2018年の厚労省の発表によると81.09歳である。もちろん平均寿命とは生まれたばかりの赤ん坊の寿命のことであり、それはつまり0歳児の平均余命のことである。

 だから赤ん坊のままで死亡したり、小学生で交通事故や病気で死ぬ人もいるだろう。またその反面90歳を超え、100歳を超えて元気な老人がいることも事実である。だからといって、誰もが努力さえすれば元気で100.歳まで生きられるという意味ではないのである。この少年が大人になった時点で、恐らく平均寿命は現在よりも延びていることだろう。

 だがその延びは一年あたり、例えば0.数歳に止まるのではないだろうか。もしかしたら、日本人の平均寿命はそろそろ限界にきていているのかも知れない。なぜなら人間の生物としての寿命と競合しているように思えるからである。

 90歳まで働きたいという意欲を認めたくないわけではない。恐らく彼は真剣に90歳まで元気で働くことを自らの信念とし、それを全うすべく努力を続けることだろう。

 それでも人は死ぬのである。病気になり、自殺し、事故や災害に巻き込まれ、命を落とすのである。それが平均寿命なり平均余命という数値に表れているのである。平均寿命とは願望の数値ではない。ましてや、健康でポックリ逝けることを示した数値なのでもない。不健康も健康も病気も事故も、様々をひっくるめて人の死のトータルがそこに表れているのである。

 そして私は、この少年の思いから派生して社会の思惑にまで飛んだのである。それはもしかしたら、「社会は思い込みで作られているのかもしれない」との思いであった。





                                     2019.1.19        佐々木利夫


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90歳まで働くぞ