80歳まで一ヶ月余を残すまでになった。そんな私にとってみれば、今が老いの真っ盛りである。だから今更老いを語ることなどないだろうとは思うけれど、老いにも段階のあることが少しずつ分かってくる。

 一つはまさに年齢そのものである。人生100年などと最近は騒がれているが、人生の終点をどこに置くかは一人の個人の人生を捉える上で大きな区切りとなる。

 だがその終点が分からないのは、今も昔も同じである。織田信長は「人生50年」と謡い舞ったと言われているが、信長の生きた時代(1534〜1582)から僅か500年足らずで、人類の寿命は二倍近くまで延びていることに驚く。

 でもそれは平均寿命の話である。個々人としての「寿命」は、今も昔も依然として不明なままである。まあ、平均値としての寿命が延びているのだから、その構成員である私の終点も延びているだろうと想像するくらいはできる。

 しかし「個」としての寿命は、流産、事故死、病死、そして老衰などなど、様々な死と対峙しているから、平均値は意味を持たないことになる。

 だから「老いのあとさき」と言ったところで、その言葉を発すること自体の中に「自らが老いていること」が含まれていることになる。つまりは、「老い」とは抽象論ではなく、少なくとも「老いの予感」程度かもしれないにしても、「我が身の老い」として実在していることになる。

 つまり「老いのあとさき」という観念は、老人の繰言以外には存在しないと言うことである。そしてそれは決して他者の老いなのではなく、「老い」とはまさしく「自らの老い」だと言うことである。

 だとするなら、「老いのあとさき」は自らの身の裡だけにあるものだから、こうしてエッセイなんぞと言う他者に向けた発信そのものが、そもそも無意味だと言うことでもある。

 現にこうして書き綴ってきて、このテーマで私は何を書こうとしているのか、その道筋すら見えてこない。「あと」と「さき」とを区別する必要や必然があるのか、それとも「あとさき」と言う一つの単語で示される老いに対する思いのことなのか、それすら私の中では固まっていない。

 こんな風に言っちまったら間違いになるとは思うけれど、人はいつの間にか死ななくなってきているように思える。「人は必ず死ぬ」、「どんな命にも限りがある」、それを私たちは理屈なしに信じていた。そして思い込んでいた。証明不要の事実として、誰もがそう信じていた。

 だが、人が絵を描いたり、文字を残すようになってから、人は死ない方向へと動き出したのではないだろうか。人の死は完全な死、つまり無に帰すこから始まった。だが死者の生前の思いを生き残った者に伝えられる手段を持つようになってから、人は死ななくなり始めたのである。

 やがて私たちは、他者の命をコントロールする術を覚えた。医学は死にいく者の復活を可能にした。臓器移植はやがて他者の臓器ではなく、人工心臓や人工腎臓などのマシンとしての人工臓器へと移るであろうし、細胞増殖を利用した培養臓器へ変わろうとするだろう。

 かつて私はここへ、老化とは人体が部品でできていることを確認する過程だと書いたことがある。それが二つ目の老いの段階である。足腰が痛くなり、目が薄くなる、心肺機能が衰え、やがて記憶が薄れるようになってくる。

 人体は様々な部品の集合が、一つの個として機能するシステムである。だからと言って、片足がなくなったところでそれが必ずしも命に関わることはない。膝が痛くて歩くことは困難であろうとも、そのことと死が直接結びつくことはない。たとえ認知症で自己同一性が危うくなったところで、それだけで命が尽きることはない。

 また更には、個としての歴史や過去の様々が消えたとしても、それがそのまま「死」なのではない。死はいつの間にか、個々人の構成要素たる部品、脳や五臓六腑や手足などから離れていった。そして現代人は今、不死へと向かおうとしている。

 秦の始皇帝(紀元前259〜同210年)は、不死を求めつつ僅か50年でその生涯を終えたと言う。だが私たちは今や命を100年に延ばし、不死をその手に掴もうとしている。いや、掴まえつつあると言っていいのかもしれない。

 「死なない人」を人と呼んでいいのかどうか疑問ではあるけれど、少なくとも私たち人類は不死を目指している。そうした方向を、正しいとか間違っているとか言うのはやめよう。神の領域への侵入だなんぞと言うのもやめよう。

 それは、人は既に不死の領域へ足を踏み出しているからである。そのことがどんな結果を生むのか、私には想像もつかない。それでも、たとえそれが人類絶滅に向かう道だとしても、人はそうした歩みをやめることはないだろう。それが、人間と言う形で進化してきた特殊な生物の、当然の行末なのだろうからである。


                    2019.12.14        佐々木利夫


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老いのあとさき