福島の原発事故に伴って発生した放射能で汚染された地下水などから、その完全な除去ができないという。そのためその汚染水は、貯蔵タンクに保存されて地上に乱立されている。ところがそのタンクを設置する場所が間もなく満杯状態となり、他地区に増設しようにもその地域の同意が得られない状況にある。

 さてどうする。このままでは増え続ける汚染水の行き場がないことになる。それで政府はこんなことを考えた。自然界にも放射能は存在しているし、海は無限と言ってもいいほどに広い。しかも地球規模で混ざり合っている。ならば貯蔵してある汚染水も、その海に薄めて投棄してしまっても構わないのではないか。

 そうした発想を国際環境として各国がどこまで許容するかはともかく、自国の領海内で投棄することにはとりあえず実力で拒否する国はないだろう。もちろん、そうした国からの漁業取引は行なわないと言う国の多発は避けられないだろう。そして自国内からの風評被害などの思惑もあって世論も反対している。

 そんな時のこんな政府の思惑に対する、市民からの新聞投稿である。理屈は色々あるが、投稿者の意見は政府の思惑に反対である。その上で投稿者はこんな提案をする。

 「・・・果たして本当に無害で安心であると言い切れるのか。食物連鎖の頂点に立つ我々人類に全く影響がないとは言えないのではないか。汚染水が投棄された海でとれた海産物は国内でも海外でも敬遠されるだろう・・・」(経営コンサルタント 東京都 69歳 男性)。

 言ってることが分からないではない。分かりすぎるほどよく分かる。ただ彼はこの投稿に次のように続け、投稿を結論付けるのである。「・・・私は提言したい。この問題はもう日本だけの問題ではない。・・・世界の知恵を集め、世界規模で対策を講じるべきである。それをして初めて、私たち国民も安心・納得できると思う

 これを読んで、私の曲がったへそが突然反応したのである。彼が何を言ってるのかが、分からなくなってしまったからである。言っていることが日本語として変だと言いたいのではない。主語とも述語も整っていて、文章としての整合性もある。

 彼はここで「私は提言したい」と述べている。だとするなら、これが彼の提言であるはずである。つまり「世界の知恵を集める」こと、これが彼の提言である。

 提言とは、具体的な解決策のことである。こうすればうまく解決する、そんな手段や方法を示すものである。だとするなら、彼の意見のどこが「提言」になっているのだろうか。「世界の知恵を集めよう」、これのどこが具体的な解決差になるというのだろうか。

 知恵を集める対象は、世界である。世界を相手にして、どんな方法で知恵を集めたらいいのだろうか。ネットで呼びかけたら、その返事(つまり解決策)が届くのだろうか。それは誰からの返事なのだろうか。そしてそれがどうして具体的な解決策になると、誰が判断し実行するのだろうか。

 しかもその発信者は誰なのだろうか。投稿者である彼自身なのだろか。それとも特定の政治家を指すのだろうか。それとも、それとも、特定の平和主義者や原子力の専門家や、更にはメディアや平和団体などの組織を指すのだろうか。

 対象は世界である。「アインシュタインに聞け」など、特定の知恵者を指名してその彼に聞けというのなら、それはそれでその是非はともかく理解できないではない。でも彼の提言は「世界の知恵」を編めて「世界規模で対策を講じる」ことだけに止まっているのである。

 世界の知恵といえばいかにも格好のいい言葉ではある。だが、「世界の知恵」という存在が、具体的に例えば国連の図書室であるとかアメリカのホワイトハウスに保存されていて、いつでも万人からの問いかけを待っているというのなら、それも分からないではない。

 「世界の知恵」は、どこにどんな形で存在しているのだろうか。それを具体的に示してもらえないと、私たちはそこへたどり着けないのではないだろうか。

 私には「世界の知恵」という存在そのものが、始めから存在しているとは思えないのである。だからと言って「世界の知恵」が存在しないと言いたいのではない。イスラエルの山奥に済む思想家が、もしかしたら解決できる知恵を持っているかもしれない。

 その知恵者はもしかしたらチベットに住む哲人かも知れず、大阪に住むホームレスがその答を持っているかもしれない。そしてそして、もしかしたらそうした知恵は、この世に存在していないことだってありうる。

 そもそも世界に向けて、彼は何をしようと提言したいのだろうか。私がここで大声で叫んだら、その問いかけが世界に届くのだろうか。

 つまり彼の提言と称する方法には、肝心な「誰に向けて、誰が」の主体が示されていないという致命的な欠陥がある。対象が特定人だろうが特定の団体だろうが、それは構わない。発信者が一人であろうが複数であろうが、それも構わない。

 日本政府が国連に向かって問いかけることだって、汚染水の処理に困っている福島県の住民が、アメリカの大統領に向かって声を上げろと言うなら、それも実行可能である。

 それが「世界の知恵」の集め方であり、それが「世界規模での解決策になる」と言うのなら、正しい方向かはともかく、提言としての意見だとは思う。

 彼の言い方が提言として認められるのなら、世界に紛争など起きはしない。抽象的に「世界の知恵」が存在するかどうか、そこまで私は否定するものではない。でも、そこへ到達するためには、「誰が何をすべきか」を具体的に示さないことには、提言としての意味がないと思うのである。

 「世界の知恵を集めよう」、そうした発言だけで提言が成立するのなら、世界中から紛争もテロも貧困も移民問題も、あらゆる困難が解決してしまうだろう。

 果たして彼の言う「世界の知恵」とは、何を意味しているのだろうか。国連は多くの場面で破綻している。様々な国際会議も各国の利害が対立する中で混乱している。

 それともそれとも、世界の知恵とは「神」そのものを指すのだろうか。だとするなら、それは「汚染水の抜本的解決」を、どこまで具体に示してくれるのだろうか。もしかしたらかれはもっともらしい言葉を使って、単に「提言のふり」をしたかっただけなのだろうか。


                    2019.10.4        佐々木利夫


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世界の知恵