AIはブラックボックスだと、書いたばかりである(別稿、「人個知能とブラックボックス」参照)。AIは考えれば考えるほど分からなくなってくる。それはつまり、「人間とは何か」に帰するものだからであろうし、分からなくなるというのは、私の知識がAIの現状に追いついていけないからだと知ってはいる。

 ただ私にはどうしても人間としての特性が、「物質で構成された脳細胞が考え出した感情、感性、倫理、常識などなどから構成されている個別の性質」といったイメージから、抜け出せないのである。

 それをどんな風に呼ぼうとも、私という存在は「思考と肉体で構成された私自身たる一個の生命体」である。どこまでオリジナルか、疑問ではあるけれど、生を得て80年近くを経て今の私がある。そして死と共に私は永久に消滅してしまうことだろう。それが「私」なのである。

 たとえ私が冷酷無比な殺人者であろうと、世界に冠たる聖人君子であろうと、はたまたアルコール依存症の天才経済学者だろうと、更には何の取り得もない並みの人間だろうとも、生まれ、考え、そして死ぬという事実から逃れることはできない。過去の全ての生物が命を持ち、その命の終わりによってその個体としての存在が消滅してしまうことを否定できないからである。

 天才だろうが、普通人だろうが、はたまた他人に迷惑をかけることしか能のなかった者だろうが、そこに「その人がいた」ことは事実である。何をもって「その人」と言うのか、人間と言うのか、必ずしも私に分かっているわけではないが、一つの存在であったことは否定できないだろう。

 人工呼吸器につながれた植物人間を人間と呼んでいいのか、連続殺人鬼として一生を過ごしてきた者を人間と呼べるのか、可もなく不可もない、何の取り得もなかった生き様を人生と呼んでいいのか、命の最後に「あぁ、つまらない人生だったなぁ」と振り返るような人生も人間なのか、そんなことすら疑問である。

 人間は考える葦だと、パスカルは定義した。だとするなら、「考える」ことが人間であることの要件なのだろうか。ならば、「考える」とは一体何なのだろうか。「考える」だけなら、犬猫だってきっと考えているに違いない。「考える」ことの意味が分からないといいながら、犬猫も考えるなどと言うのは理屈に合わないかもしれないが、「考えること」の定義も私の中では不確かである。

 それでも、生延びるためや、種を残すため、更には快適な生活などのために、自らの人生に様々な工夫を凝らしたり選択したりすることもまた、「考えること」に含まれるような気がする。ならば、自らの生活環境に適した土壌を選び、子孫を残すために綿毛となって種子を飛ばす植物も、それなり「考えていること」になるのではないだろうか。

 そうは言っても、私たちが考えている常識であるとか倫理みたいな思いは、犬猫や植物には厳密な意味では備わっていないのかも知れない。そうした思いは人間固有のもののような気がしている。そして、必ずしも普遍とは言い切れないかも知れないけれど、多くの人間に共通する要素であるようにも感じる。

 ならば、その共通性はどこからきたものなのだろうか。個人としての私が、成長していく過程で自ら獲得した個別的な思いなのだろうか。そしてそれは生物として、もしくは人間として自然派生的にそうなるものなのだろうか。

 とは言っても、自然派生という考えには理解しにくいものが残る。そこには「そうに決まっているものなのだ」みたいな、決定論じみた議論無用ともいうべき独断があるように思えるからである。「俺の目を見ろ、何にも言うな」式の理屈には、説得力も納得させる力もないように思えるからである。

 一つの方向として、「学び」がある。「学ぶこと」の中に自然に一つの方向に向かわせる力があるのか、「一つの方向へ向かわせること」が「学ぶこと」のなかに求められているのか、そこまでは分からない。

 例えば「殺すなかれ」は、倫理として多くの人間の支持する共通な思いだろう。でも、それがどうして「人類共通の倫理」みたいな思いにまでなってしまったのだろうか。「それが正しいからだ」と言うなら、どうして「正しいことになってしまった」のだろうか。

 まさかにモーゼが十戒の中で伝えたからだとは、言えないだろう。「なぜ人を殺してはいけないのか」(小浜逸郎、羊泉社)という本を読んだことがある。読んでも答の出る本ではなかったが、こうしたテーマがあること自体、「殺すなかれ」が必ずしも人類不変の倫理ではないことが分かる。また、戦争や貧困や事件などなど、理不尽な殺人の現実が、それを裏付けているからである。

 「教えられたことによる効果だ」とする発想にも疑問がある。それは一種の洗脳と同視できるからである。それには、「いやいや違う。洗脳された結果ではなく、自分で正しいと思ったから信じたのだ」というかも知れない。ならば「正しい」との判断は、教えられた知性が行ったものなのか、それとも個人独自の思考によるものなのか。そしてそれは、どこで見極めることができるのだろうか。

 私は私独自の存在なのか、それとも生まれてから現在まで、私を取り囲む様々な人々に教えられた結果の総合としての私なのか、更にはテレビラジオなどのメディアは、その総合としての私にどこまで加担しているのか。そうなると、一体「私って何」なのだろうか。私を作り上げている「私という概念」は、果たして私だけのものなのか、とこまで「個」としてできているものなのだろうか。

 そうした私の個としての様々と、人工知能と言われるATとは、どこまで関わりを持てばいいのだろうか。AIは学習すると言われている。それは果たして学んでいるのだろうか。人真似をしているだけだと言いたいのではない。人間だって真似ることで成長してきたのだし、そもそも「学ぶ」とは「真似る」の意味だと聞いたこともある。

 倫理も常識も、学ぶことから派生しているように思える。だが、そうした倫理や常識が、教育の総和のみによって構成されているとは思えない。教育の総和だとするなら、世の中の全員が同じような倫理と常識に統一されていいように思えるからである。

 どんなに教育しても、そうした教育に従わない者の存在を私たちはいくつも知っている。犯罪や戦争だけでなく、オリジナルな芸術や奇跡とも言える科学の発見など、学ぶことを超える発想が人間にはある。いやいやそんな特殊な発想でなくてもいい。十人十色の思いそのものが、一人一人の違いを示している。

 そんな個性とも言うべき個々人の思いを、そのままAIに当てはめてもいいのだろうか。AIもまた、十人十色、百人百色なのだろうか。AIの殺人や詐欺や混乱を、そのまま「在るもの」として社会は認めることができるのだろうか。それとも教育によってそんな例外は皆無となるように補正していく必要があるのだろうか。そうしたとき、補正と個性とは、どこまで調整できるのだろうか。誰がするのだろうか。もしかしたら、AIが補正そのものにまで介入し、自律していくのだろうか。


                         2019.7.13        佐々木利夫


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