2月24日のNHKスペシャルは「大往生〜我が家で迎える最期」と題する特集であった。その放送の冒頭のナレーションが、タイトルに掲げた「最期を自宅で過ごしたい」であった。

 番組は91歳の女性を彼女の自宅に運び込む姿から始まった。その映像を見て、私はすぐに違和感を覚えたのである。そこには医師がいて、看護師がいて、彼女を運び込むための家族か近所の人かもしくは介護関係のスタッフなのか分からないけれど、多くの人たちの姿があったからである。

 「自宅で最期を迎えたい」との気持ちは、老いた者にとっては究極の願いだと思う。中には病院やケア施設などで最期を迎えたいと願う老人だっているとは思う。しかし、恐らく自らの意思をはっきりと表示で゚きる状態の老人ならば、その大多数はこれまで家族と住んでいた我が家、そして自身が長い間買い物をし料理を作り子育てしてきた我が家で最期を迎えたいと願うのは、ごく自然の思いなのではないだうか。

 その思いが自然であることは、ことさらに「最期は自宅で・・・」などとメディアが取り上げなくても、誰もが証明なしに理解できる「当たり前の事実」なのではないだろうか。こうしたテーマをテレビが取り上げたということは、逆に「本人はそう思っているにもかかわらず、現実がそうなっていない」ことを強調したかったからのように思える。

 つまり、患者もしくは高齢者の多くが自宅で最期を迎えたいと望んでいるにもかかわらず、その望みが叶えられないでいる、と言う明らかな現実を伝えたかったのではないかと思うのである。そして次にくるテーマが、ならばどうしてこんなことになるのか、どうして望みが叶えられないのか、ということである。

 その答えは至極簡単である。皆が知っていて知らない振りをしているだけで、簡単なことである。答えはあっさりと、一言で言うことができる。

 それは「金がない」、だけだからである。金がないから、望みが叶えられないのである。そしてその金は、基本的に望んでいる本人にないことに起因しているのである。

 なぜなら、人手にしろ医薬品や設備などの設備や装置にしろ、その背景には必ず「お金」が関わってくるからである。どんなサービスも、私たちの社会は金銭に評価することで成立しているからである。

 もちろん、ボランティアがあったり金銭によらない介護や治療を支援してくれる多くの善意など、お金にまつわらないサービスが成立している場面がないとは思わない。それでも、善意だけにすがるようなサービスは、決して永続することなどないのである。

 もちろんサービスを受ける側も、様々だろうとは思う。与えられた小さなサービスに満足し、善意に感謝しつつ全面的に許容できる人もいるだろう。しかし中には、不平や不満の中にそうしたサービスを押し付けと感じたり不足だと思うなど、戸惑う人もいるような気もする。また、今回のテーマに掲げたような自宅での介護には、恐らく認知症などのように他者との交流の難しい老人も多いだろうと思う。

 それでも自宅とはまさしく自らの生活基盤における生活の場である。そこは生まれた場所であり、育った場所であり、自らの力で購入し子育てし、家族を作り上げてきた場所である。そこを自分の居場所として考える人が多数であろうことは容易に理解できる。

 でもこの番組を見ても分かるように、「自宅で最期を迎える」ということは、基本的に自力で生活していけない状態の老人の要求を意味しているのである。原因が老衰にしろ、はたまた病気にしろ、更には認知症や体力の衰えにしろ、一人では生活できない状態の個人の望みを意味しているのである。

 なぜなら、「一人で生活できるだけの体力や財力」があり健康であるなら、「自宅で最期を迎える」ことは自らの意思だけで十分可能だからである。一人では自活できない、それでも住み慣れた我が家で生活し最期を迎えたい、この二律背反の結果として、この「最期は自宅で過ごしたい」との思いが矛盾の只中に置かれるのである。

 なぜなら、自宅で最期を迎えるためには、他者からの介助が不可欠だからである。食事はもとよりトイレや入浴や、簡単な運動や会話に至るまで、他者からの援助がないと自力では不可能だからである。そしてそれに病気などが加わるなら、更に医師や医療器具などの介入が不可欠になる。

 そしてそのために必要とされるスタッフは膨大な数となる。しかもその介入は24時間丸ごとに及び、場合よっては少しも目を話せない状態にまで至る。そうした状態が最期を迎えるその時まで続くのである。何ヶ月も、何年も、時には十年を超えて・・・。

 かつてはこうした状態のすべてを、家族の介護という形で私たちは処理してきた。「親の面倒を見るのは配偶者や子供など家族の責任であり義務」という一言で解決してきた。

 それが平均寿命が世界に冠たるまでに延びてきた現代では、実現が難しくなってきた。家族以外の他者の介入が必須になってきたのである。そして他者の介入には「金がかかる」のである。医療が必要になるなら、それには医者や看護師や薬や医療器具の投入が避けられないのである。

 そして他方、介入する他者には適正な報酬が求められ、労働時間の制限や休暇の付与が必須となってくる。「他人に多少迷惑をかける」の程度を超えてしまうのである。仮に一人の自宅介助に8時間勤務で三人のスタッフが同時に必要とされるなら九人が必要となり、それに年次休暇などを考慮するなら必要な人数は十人、十一人と際限なく増えていく。

 そしてそのスタッフの給与や医療にかかる費用などは、「誰かが必ず払わなければならない」のである。本人にその資力がなく、そうした負担が難しいとしたら、国や自治体がそれを負担しなければならなくなる。つまり、自腹を切るか、それとも税金で賄うかの決断をしなければならないのである。

 国も自治体も、打ち出の小槌を持っているわけではない。公的支援がどんなに望まれても、「ない袖は振れない」ことになってしまう。極端な話、「姥捨て」を選ぶか「国が破産するか」にまで議論は進んでしまうことになる。

 だとすると、結局は「ほどほどで・・・」、というところに落ち着かざるを得ないのだろうか。そうするとき、どうしても「国民の要求するサービスの総額と財政の不足」、こうした矛盾に政治は必ずぶち当たることになる。そして次にくるのが、「財政赤字を覚悟するか」、「国民に我慢を強いるか」の選択である。

 今の日本はこうした間で混乱している。国債だけ見てもその残高は1085兆円にも及んでいる(平成29年、財務省)。日本の人口は約1億2500万人だから、単純に割り算すると国民一人当たり868万円にもなる。赤ん坊も老人も含めてである。

 常識的に考えてこの額は、返済不可能な金額のように私には思えてならない。そして借金はそれだけではない。加えて地方自治体の発行する地方債が別にある。まさに私たちの環境は、借金地獄そのものである。

 そしてそして、これが一番我がままで差し迫った問題なのだが、私自身が80歳になろうとしていることなのである。「自分のことは自分で・・・」が、私たちの世代に共通した思いではある。家族も含めて、「他人に迷惑はかけたくない」が心情として常に気持ちの中にある。

 だが、ここに掲げたテーマに結びつく様々は、「自力で生活できなくなっても、まだ死なない」という現実に打ちのめされるのである。そしてその事実は、実は「生半可ではすまないほどの他者の介助」を要求することを含んでいるのである。

 「ぴんぴん ころり」を心底願いつつ、スパゲティ状態のまま病院のベッドに縛り付けられている現状が、「自宅で最期」のテーマへの矛盾として、まさに私たちに突きつけられているのである。

 その背景は、これだけ財政赤字を抱えながらも、本人にも政府にも「金がない」こと、ただそれだけがあるからなのである。ただそれだけのことなのである。


                               2019.3.13        佐々木利夫


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最期を自宅で過ごしたい