これから書くことが屁理屈であり、へそ曲がりの身勝手な思いであることは自分でも分かっている。にもかかわらず、曲がってしまったへそはなかなか直ってくれない。そこまで私はひねくれてしまっているのかもしれない。

 5月30日朝、神戸市登戸でスクールバスを待つ小学生の列に、刃物を持った男が突然襲いかかるという事件が起きた。そして小学生一人と保護者男性一人が死亡し、重軽傷者は学童16人と言われている。犯人は柳刃包丁二本を両手に持ち園児の行列に襲いかかり、事件直後に自殺した。

 犯人が死亡してしまったことで、事件の背景や犯行の動機などの解明は難しそうである。それでもこの事件を知った住民のほとんどが、事件と二人の死を悼み、殺人現場には山のような弔意の花束が積まれている。そしてテレビに映される人のほとんどが、二人の死を「不条理」と表現している。

 この不条理だとの言い方が不自然だとか、おかしいと思ったわけではない。確かに、こんな死は許されないことであり、不条理だと思う。それはそうなんだが、世の中に果たして「不条理でない殺人」というものが、果たしてあるのだろうかとの思いが、私の頭を離れなくなってしまったのである。そしてそれが、私のへそを曲げたのである。

 どんな場合も人を殺すことが不条理だと思っている人が、100パーセントだとは限らないだろう。例えば死刑の執行などは不条理な殺人にはならないと思うような人も、きっといることだろうからである。また、もう少し考えを広げるなら、例えば正当防衛などで自らの死を避けるためにやむを得ずに他者を殺傷してしまった場合や自死なども、「不条理でない殺人」の範囲に含めてもいいのかもしれない。

 また殺人者の立場からするなら、殺した相手の死は不条理でもなんでもないことだろう。つまり殺意を持って相手を殺したのだから、そこに不条理な死などという観念の入り込む余地など、全くないだろうからである。

 また、これは更に賛同者が少なくなるかも知れないけれど、「戦争による敵の死」なども、どちらかと言うとそこに不条理さを感じる人は少ないように思える。

 でもそうした殺人は例外的である。そんな例外的な殺人を除くなら、ほとんどの殺人は「すべて不条理」なのではないだろうか。確かに犯罪による被害者の死などは、不条理の度合いが強く感じられるかもしれない。

 こうして考えていくと、不条理なのは「殺人による死」のみに限られるものではないように思えてくる。つまり、「不意の死」そのものが、多くの場合不条理に思えるのではないかということである。

 それはつまり殺人のみでなく、事故による死であろうが、災害による死であろうが、はたまた病による死であっても、どんな死も不条理だと感じる人はいるのではないだろうか。それは死はすべて、生きている者の感じることだからである。死者は死を感じることなどできず、残された生者だけが、死者の死を感じることができるからである。

 死が基本的に不条理を含むものだとするなら、殺人による死は更に不条理であろう。その不条理さは、「納得できる死」、更には「承認できる死」に当たるかどうかにあるのかもしれない。だとするなら、不条理かどうかの違いは、死の納得性にあるのだろうか。ならば、納得性とは何なのだろうか。

 例えば100歳を超えて老衰で死んだ人に対して、多くの人は「納得できる死」のような感触を受けるかもしれない。そのために「大往生」だの、「幸せな死だったね」など、あたかも生まれたときから決められていた天寿を全うしたかのような言葉がある。でもそれは間接的にもせよ、「納得できる死」を強制させられているからなのではないだろうか。

 どうやら私は、ここでも「程度の罠」、「連続の罠」にはまってしまったような気がする。死にいたる経緯と言うか原因を捉えて、ここまでは許容できる、ここからは理不尽になる、とどこかで線引きしようとしている自分を感じる。

 つまり、殺人の死は不条理で、その不条理さが徐々に薄れていって、例えば100歳を超えた老衰にはほとんど不条理を感じないなど、連続しているのではないかとの思いである。

 その場合の死は、「個々人たる私の感じる死」であって、決して「死者の感じる死」ではない。死は常に生きている者、残された者の意識の中にある。死者が死へと向かう途中で、どこまで「死」そのものを理解しつつ死に至るのか、私には残念ながらそうした知識はない。

 ただ、特定の死を捉えて理不尽さを強調することは、その死以外の死の不条理さをあたかも希薄化させてしまうような、そんな感触をこの事件に感じてしまったのである。100歳を過ぎて、天寿の尽きたと思われる老人の死も、この事件と同様に理不尽な死になるのではないだろうか。

 そしてもう一つ、人はもしかしたら、切ないほどにも答を見つけたがっているのかもしれない。何にでも答を見つけようとしているのかもしれない。そしてそして、その答の一つがこの「不条理」なのかもしれない。答にならないと知りつつも、それでもどこかに「答らしきもの」がないと人は落ち着かなく、居心地が悪いのかもしれない。


                               2019.6.14        佐々木利夫


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不条理な殺人