「人生の正解」、いかにも大きなテーマである。古今の哲学者、宗教家、更には名もなき庶民も含めて、恐らくこれまでに地上に命を得てきた多くの人のそれぞれが、一人の例外もなく何らかの形でこの問いを発してきたのではないだろうか。

 そんな問いを、21歳の女性が新聞投稿で、読者に投げかけてきたのである(2019.10.25朝日新聞、兵庫県21歳、大学生、女性)。

 投書のタイトルは、「私は人生の『正解』が欲しい」であった。投書の内容はそれほど大げさなものではない。どちらかと言うと平凡な問いかけであった。それでも私は、彼女の余りにも堂々たる「正解の求め」に、どちらかと言うとどきもを抜かれたのである。

 「高校までは何に対しても『正解』がありました」。彼女はこんな風に投書を書き出す。この一言からして、それが既に大いなる誤解であることくらい簡単に指摘できる。だが彼女は、「何に対しても正解があった」と信じていたのである。

 そうした思い込みに対する回答は、恐らく「それは正解だったのではなく、正解だとあなた自身が勝手に誤解していただけです」とするものであろう。

 話はまるで変わるけれど、今書いているこのエッセイは、発表すると実は1500本目になる。我が国に限らず、世界中で一年目だとか10周年記念、時には50年目とか100年目などの節目を捉えて、色々な事柄についての催しを行うことが多い。

 そうした個々の事柄と、5年、10年、100年など言った時間の区切りとは、恐らく何の因果関係もない。10年、50年、100年などの区切りは、確かに割り切れるという意味で心理的な落ち着きを私たちに与えてくれる。だが、99年目と100年目と101年目とで、ある事象に対する評価がそれほど変わるものではないだろう。

 そうした意味で、1500本目のエッセイと言ったところで、1500本目であることに特別な評価が与えられるものではない。それでも、よくもここまで続いたものだとの感慨は残る。ホームページを自作してインターネットの世界に飛び込んだのは、2003年1月のことである。それから2019年10月の今日まで、16年9ヶ月もの期間を、この世界で遊んでいたことになる。

 エッセイの内容はまさに雑多だが、16年で1500本、単純に割り算すると年93本あまりになる。これを年52週で割り算すると、毎週毎週休まずに2本弱を発表し続けてきたことになる。へそ曲がりのマンネリエッセイだと自認するところではあるが、それでも毎週二本のエッセイを休まず続けられてきたの
ことに対しては、内容の良否はともかく、自分を誉めてやってもいいような気がしている。

 そしてこのテーマである。「人生に正解はあるのか」そんな問いかけにぶつかったのも何かの因縁なのだろうか。今となっては500本記念や1000本記念を意識したエッセイを発表したのかどうか、目次を繰って見ても確かめることはできない。しかし、1500本16年を元気で書き続け、生き続けられてきたこと自体に、自分に褒美を上げたいような気がする。

 確かにこの間に三回もの脳梗塞による入退院を繰り返した。それでも、ともかく後遺症なく暮らしてこれたこと、そして夫婦共々元気に過ごせてこれたことは、やはり望外の幸せだったようにも思う。

 そんなところへ人生に正解はあるのか、の問いがぷつけられたのである。恐らく私がこの歳になって思うには、「正解はない」が答になるのではないかとの思いが深い。そもそも正解があると信ずること自体が、そこに多少なりとも自分に対する驕りがあるような気さえしてくる。

 そうは言っても、「正解はない」と断言してしまうことにも、いささかの躊躇を感じてしまう。彼女は「・・・だってほら、親も学校も社会も、私にそうなることを望んだでしょう。だから私はそれを信じて疑わず、そうすれば必ず幸せになれるとさえ思っていました・・・」と言う。

 それはそれぞれ親や学校の抱いている「正解」であって、それが貴女自身にとっての「正解」である保証はない、と助言することは容易である。「・・・私なりの正しさって何だろう。私にとっての幸せって何だろう・・・」と彼女は続け、「・・・『こうすれば必ず幸せになれる』と誰かにいってほしいです」と、この投稿を結ぶ。

 その答を、彼女自身も投稿の中で無意識に、「(それは)自分で見極めろと言われます」と書いている。それはそうなんだが、彼女の投稿はそれ以上の問いかけが含まれているように思えてならない。

 21歳の彼女は、やっと「人生の正解」の意味にたどり着いた、と私は考える。「人生の正解」に向かって何をすべきか、その第一歩を踏み出したのである。恐らくその道はとてつもなく長いものになるだろう。そして「人生に正解などない」ことに、いずれたどり着くことになるだろう。

 暗中に模索して、手探りでまさぐる。時に途方にくれ絶望し、挫折を繰り返す。そして見つけたと思った正解が、実は錯覚でしかなかったことを思い知ることだろう。長い努力が何の成果をもたらすことなく、たまさかの幸せが誤解でしかなかったことを、彼女はやがて自身で知ることになる。

 そして彼女やがて、「正解を探し求めること」そのことこそが「正解なのだ」と感じることになるだろう。努力しても報われないことの連続こそが「正解」なのであり、そうした無駄とも思える努力の過程こそが「人生の正解」なのだと知ることだろう。

 人生とはそれでいいのである。「人生の正解」は、存在しないからこそ「正解」なのである。捜し求める過程そのものが、「正解」を求める意味なのだと知るだろう。人生はそれで足りるのである。それでいいのである。

 それが私の彼女に対する助言である。そして、悩み始めた彼女に私はどこかでエールを送り、同時に老いた我が身を振り返って、そんな彼女にどこか嫉妬している自分を感じてもいるのである。羨ましいのである。


                    2019.10.28        佐々木利夫


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人生の正解