国会議員が、北方四島のビザなし交流訪問団の一員として国後島を訪問した5月11日のことである。訪問団の懇親会の場で引率団長に対して酔った彼が、「戦争でこの島を取り返すことには賛成ですか、反対ですか」と問いかけ、「戦争しないとどうしようもなくないですか」と発言したことが世上を沸かせている。

 この発言が話題になった背景には、発言者が戦争を放棄した日本国憲法をまるで理解していないとの非難の思いがある。その上更に、国会議員として憲法を守るべき立場にある者としてあるまじき発言であったということが、更なる拍車をかけているようである。いうなれば、彼の発言は憲法を無視した暴言であるとする意見が、批判の中心であろう。

 この発言で、彼は所属している国会での政党である日本維新の会を除名され、5月18日には野党共同で国会議員の辞職勧告案が出されようとしている。

 そんなこんなで、メディアも含め世論は上げてバッシングに走ることになる。非常識、憲法違反、あるまじき発言、・・・などなど非難の言葉の尽きることはない。メディアも含めて、まさに国民一色の流れができたかのようである。

 そうした大騒ぎを見ていると、私は逆に醒めてくるというか、日本人のこうした一様感、一体感みたいな流れが気にかかるのである。それはかつて、国民全体が「右向け右」に流されてしまったことがあったことが思い起こされ、どことない不安を感じてしまったのである。

 戦争反対、憲法違反一色に染まったこうした流れは、そのまま日本国民のほとんどが、「勝った、勝った」と叫んで提灯行列で戦勝を祝った、かつての日清・日露戦争時代の国民の思いに重なってしまうからである、

 もちろん私もこの戦争発言には、少しも賛成しない。国会議員だからという意味だけでなく、日本の国民としてもふさわしくない発言だと思っている。叶うなら、国会議員として適任なのかどうか、少なくともその点に関してだけは国民の審判を仰ぐべきだとも思っている。

 それでも「国民が一色に染まる」という現象に、どこか日本人の危うさみたいなものを感じたのである。国民一色のこんなスタイルは、決して正しい日本人としての姿勢を現しているのではないと思い、また国民はこんなことで一色になってはいけないように思えたのである。

 確かに彼は国会議員であり、憲法遵守は個人としても議員としても当然の責務である。でもそれは別に、国会議員としての義務だからと言うのではない。私たち一般市民だって、日本国憲法を守るべき責務は当然に背負っていると思うからである。国会議員と一般市民とでは、憲法遵守にある程度の軽重があるような気のしないでもないけれど、法的に違いがあるかと問われるなら、私は「ない」と答えたい。

 私もかつて国家公務員に採用されたとき、憲法を守ると書かれた誓約書に署名した記憶がある。かれこれ60年以上も昔のことである。だが、その署名したことで憲法遵守の義務が発生するわけではあるまい。署名してもしなくても、また仮に署名するような職業に就かなかったとしても、憲法を守るのは日本人として当然の義務だと思うからである。

 ただその憲法遵守、つまり憲法に反してはならないとの義務は、行動としての義務に限定されるのではないかと思うのである。「憲法に反した行動をとってはならない」、「憲法に反するような拘束を、他者にしてはならない」、これが憲法遵守の基本にあるのではないかと思うのである。

 逆に言うと、憲法に反するような思いであっても、心に抱くことやそれに添うような発言をすることは、憲法遵守義務の範囲には含まれないと思うのである。憲法に反する思いや発言であっても、それはまさしく憲法で保証している思想の自由であり、言論の自由の範囲内にあると思うのである。憲法に反する発言ですら、憲法で保障されている権利ではないかと思うのである。

 もし仮に憲法に反するような見解は、思ったり発表したりすることすら許されないとするなら、憲法改正の意見そのものが封じられてしまうことになるのではないだろうか。つまり「戦争を容認する」ような主張は、憲法が戦争放棄を掲げているという理由だけで、問答無用に憲法違反の見解であるとして禁止されてしまうことになるのではないだろうか。

 戦争容認の意志は憲法違反であり、発言どころか心で思うことすら許されない。だからそんなことを言う奴は死刑にしてしまえ、そんなパターンで流れを作ることは非常に分かりやすい考えである。それは、戦争という言葉の持つ意味なり行動が、余りにも強烈な拒絶感を私たちに植えつけるからだと思う。

 こうした流れの中で、基本となるのはある行為が事実として「憲法違反」になるかどうかであって、私たちの情緒や思惑などとは無関係である。なぜなら私たちは日本人として法治を基本とし、法律で決められた以外に責任や義務を負わないことを日本国民として約束したことで成立させた国家だからである。

 もし仮に、自衛隊や海上保安庁が、勝手に外国に武力行使を行ったとしたら、それはまさに憲法違反であり許されない行為である。でも国民が「戦争を容認する」と思うこと自体が憲法違反だとするなら、基本的人権を憲法の範囲を超えて拡大もしくは縮小して考える自体も、憲法違反として否定されることになってしまう。

 つまり現行憲法の一部もしくは全部の是非を考えること自体が、憲法違反とされることになってしまう。例えば、参議院の存否を考えること、議員定数の増減を議論すること、自衛隊を憲法に明記すべきと考えること、地方自治を強めることや弱めることなどについて検討すること、三審制度を改めて憲法裁判所の設立を検討することなどなど、現行憲法の枠外になるような議論はすべて憲法違反になってしまうことらなる。

 前にも書いたように、私もこの国会議員の発言には反対である。でも、この発言をしたことそのものが憲法違反になるとは思えない。こんな発言をする人が国会議員としてふさわしいかどうかはともかく、発言したことを捉えて国会議員の資格を奪うようなことは許されないと思うのである。

 嫌いな発言であっても、気に食わない発言であっても、日本国憲法はその自由を保障しているのである。それが民主主義なのであり、私たちが望んだ日本のあり方なのである。国会議員としてふさわしいかどうかは、少なくとも現行法上では「選挙という審判に委ねるしかない」、と私は真剣に思っているのである。

 戦争は「現行憲法が否定している」という意味しか持っていないのである。「戦争は絶対的悪」とするあらゆる規範を超えた宇宙的基準が存在しているわけではない。戦争は、神が定めた規律に反する行為であってそれはあらゆる法律を超えた規範であるなど、そんなことを考える余地などまるでないのである。

 国民の多数が、戦争を容認する憲法改変に賛成したとするなら、少なくとも日本は他国に向かって戦争を仕掛けることができるのである。それがあなたの気に入ろうが入るまいが、そうした憲法の改変が日本人の総意なら、戦争は絶対悪なのではない。それは一種の選択的行為にしか過ぎないのである。

 そんなことくらい、これまでも日本は同じ過去を歩んできたことから、明らかに分かることである。また、世界中で戦争が現実として多発していることからも、常識的に分かることなのである。もちろん私が戦争反対に一票を投じることは当然であるとしても、そして日本人のほとんどがそうであろうことを確信していたとしても、戦争が選択的行動であることを否定することなどできないのである。「思い」を罰することなどできないのである。


                               2019.5.22        佐々木利夫


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紛糾する戦争発言