「・・・必要なのは親への非難ではなく、すべての子供の可能性を祝福することだと思う」。筆者は自らの主張をこんな風に結論付ける(2018.12.19、後藤正文、ミュージシャン。朝日新聞「朝からロック」)。

 私はこうした意見に何の異論も無い。むしろ当然であり、応援したいとすら思っている。

 だが彼はこう述べる前段で、「・・・こうした問題(未婚のひとり親への支援策をめぐる政府内の意見)が議論される場合、決まって親の責任の話になる。『経済力』や『計画性』というステレオタイプな言葉が使われ、親たちが非難される。」と述べているのが気になるのである。私にはこのステレオタイプとの発言と最初に引用した彼の主張とのあいだに、どこか整合性がとれていないように思えてならない。

 それはつまり、前段で親への責任論がステレオタイプだと非難しているにもかかわらず、後段で自らの結論に「すべての子供の可能性の祝福」という、似たような論法を使っているからである。私には、彼の言う「すべての子供の可能性の祝福」という発想そのものが、そのままステレオタイプになっているように思えたからである。

 ステレオタイプという言葉を、私が正確に理解できていないのかもしれない。筆者の言う意味と、私の抱いている意味とに決定的な違いがあるのかもしれない。だとするなら、そんな感触の違いの中で彼の投稿を批判することなどできないだろうからである。

 でもステレオタイプの意味を極めて単純に、「行動や考え方が固定的・画一的。紋切り型」と理解していいのなら、彼の言う「すべての子供の可能性の祝福」という発想も、まさに単なる美辞麗句を並べただけの抽象的な意見、つまり紋切り型の意見になっているのではないだろうか。

 「みんな仲良く」だとか、「平和な世界の実現」などと言った表現は、結果の理想だけを並べているだけで、何一つ具体的な意見を提示していない。そんな抽象論は、まさに紋切り型そのものの意見になってしまうのではないだろうか。「言ってることは分かった。だったらそのためには、どうすればいいのか」についての具体的な提言の欠けている意見は、まさに何の役にもたたない空論になってしまうのではないだろうか。

 だからと言って、私は彼の主張する「すべての子供の可能性の祝福」と言った意見が、まるで無意味だと言いたいのではない。最初にも述べたように、応援したい意見だとすら思っている。

 ただ言いたいのは、彼は政府内での議論がステレオタイプであると決め付けていることである。それはつまり、そうしたステレオタイプな意見では、彼の考えるような未婚の親に扶養されている子供への支援は難しいと主張していることを意味している。そして、その解決のための結論として「すべての子供の幸福の可能性」を掲げたということに、「それは何の意味も示していないではないか」と思ったのである。

 私にはむしろ、彼がステレオタイプだとして批判している「親の責任論」のほうが、具体的な提言になっているように思えるからである。無論私は「親の責任論」に賛成だというのではない。ただ、たとえそれが間違った意見だとしても、「親の経済力が足りないせいだ」、「親の計画性が不足しているからだ」とする意見の方が、ことの是非はともかくとして、少なくとも「すべての子供の可能性の祝福」という抽象論よりも、具体的だと感じるのである。

 つまり、彼のいう「すべての子供の可能性の実現」という主張からは、何の成果も得られないと思えるからである。たとえ間違いにしても、「親の責任論」の方が、少なくとも子供に何らかの直接的な影響を与えられるような気がするのである。

 彼の意見の中に、他者の意見をステレオタイプだとして批判する一文が無ければ、私がここまでへそ曲がりを感じることはなかっただろうと思う。ステレオタイプだとの批判の言葉がなかったとしたら、彼の投稿は、「戦争より平和がいいに決まってる」みたいな抽象論として私の中で、右の耳から左の耳へスルーしてしまったと思うのである。

 他者の意見をステレオタイプだと批判するのであれば、少なくともそれに対抗しうる、しかもそのステレオタイプの意見よりもベターだと考えられる余地のある、新しい意見を提言してもらいたかった、そんなことが引っかかるのである。


                                     2019.1.6      佐々木利夫


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